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夜明けのこころ

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最近出版されたダライ・ラマ14世の本から2冊。

夜明けの言葉』。ダライ・ラマがあちこちで語った言葉をまとめたもの。短い文章を集めたものなので、どこから読んでも良い。こうした形式の本はこれまでにも何冊か出版されています。一冊持っておくと良いでしょう。何に良いのかは、自分で発見してください。

この本に限りませんが、ダライ・ラマが世界に向けて語る言葉というのは、仏教徒限定でもなければ、仏教徒に改宗することを勧めているものでもなく、ごく世俗的な一般的な人々を想定しています。それでいて仏教のエッセンスに基いています。従って、仏教への理解度に応じて様々な読み方ができるものだと思います。

書名の「夜明け」というのは大震災を意識しているのかもしれません。が、本の中には特に明示されていません。

本書にはチベットやブータンの美しい写真が多数掲載されており、目を引きます。

続いてもう一冊。

ダライ・ラマ こころの自伝』。過去の様々な演説などをまとめたもの。編者はフランス人。子供時代の思い出から、平和への呼びかけ、地球環境問題、そして中国によるチベット侵略に対する告発、その解決のための提案などにわたります。

中でも後半、チベットを占領して動かない中国の政策に対してのいくつもの演説は、絶望的な状況の中であくまで平和的な解決を訴え続ける姿勢に感動せざるを得ません。確かにこれはノーベル平和賞に値するといえます。

チベット問題やダライ・ラマをよく知らない人も含めて、是非多くの人に手に取ってほしい一冊です。

iPhoneやiPod Touchに最近配信されたiOS 4.2では、チベット語の扱いが改善しました。

チベット語はチベット文字で書き表します。チベット文字はインド系の文字の一種であり、ベースとなる文字の周囲に記号を付ける、複雑な構造をとります。Unicodeでチベット文字を扱うには文字合成の処理が必須です。

以前のiOSでは確かチベット文字の合成ができていなかったと思うのですが、4.2ではきちんと合成されて表示されます。

ソフトウェアキーボードも用意されています。設定画面から、各国語のキーボードを追加する機能の中に、チベット語もリストアップされているのです。チベット語を選んで追加してやると、チベット文字の入力が可能になります。

UTF-8で符号化されたチベット語のウェブページとしては、ダライ・ラマ14世のチベット語のホームページがあります。チベット文字の表示を試しに見てみるのに使えるでしょう (読解できるかどうかは別にして!)。また、日本語のブログ「チベットNOW@ルンタ」には、時折チベット文字が(HTMLの文字参照の形で)使われることがあります。

私がメインで使っているPCが故障してしまったので、復旧するまでの間、ブログ更新があまりないかもしれません。機械は壊れるものだとはいえ、困ったものです。

さて、先週はダライ・ラマ法王が来日し、長野や横浜で講演されました。なんでも今回は動員数がかなり多かったように聞きます。

何度も日本に来ていて、特にここ数年は毎年来日されている法王は、日本では仏教への関心が高まっているようだと話されていました。聴衆の手ごたえなどからそう感じられたのでしょうか。

長らく「葬式仏教」などといわれてきて、最近ではその葬式にすらお坊さんを呼ばない人が出てきているらしいという状況からすると、仏教へ関心が高まっているというのは、ちょっと矛盾しているように思えます。

ですが、儀式的な習慣が惰性に成り果てたがために、そもそも仏教とはなんだったのかという根源的な問いに回帰してきたのだとすれば、矛盾ではないのかもしれません。

仏教というのは心の科学と形容されることもあり、人間の心の動きをよく観察して良い方向に持っていくことが重要視されているように思います。そうしたことに対する需要は時代を超えて存在します。むしろ、知的・精神的に高度な作業を必要とする職業につく人が増えた現代ではより多くの需要が存在するという見方さえ可能かもしれません。

今後、何かのきっかけで仏教が再発見される可能性があるのではないでしょうか。2002年頃からの自転車ブームは、自動車が溢れ返る世の中において、知的感度の高い人たちが「そうだ、自転車があった」と気付いて、ありふれた存在だった自転車を再発見して新たな役割を与えるものでした。同様に、「そうだ、仏教があった」という動きがあり得るかどうか。適当な契機があればそれは可能だと私は思います。

仏像ブームなんていうのもありますが、あれは美術品として鑑賞するにとどまっていて、仏教そのものとはあまり関係がないように思えます。しかし、そういう「器」が存在していれば、そこに実質を与えることは十分に可能です。アルボムッレ・スマナサーラの本もよく売れているようだし、新たな仏教受容の土壌は整いつつあるのかもしれません。

ダライ・ラマ14世の偉大な点として、仏教を押し付けない、仏教に閉じないということを挙げられると思います。ダライ・ラマはいうまでもなくチベット仏教のトップですが、世界中で読まれている彼の本は、特に仏教徒や仏教徒予備軍を対象とせずにごく世俗的な一般人向けに書かれ、しかしながら仏教のエッセンスに基いています。

ダライ・ラマ こころを導く言葉365』(春秋社)もそういう一冊です。仏教の見方に立脚しながらも、仏教徒以外に門を閉ざすわけでもなく、ましてや仏教への改宗を迫るわけでもなく、平易かつ論理的、常識的な言葉で書かれています。

本の主旨とあまり関係ないことながら、この本には面白いくだりがあります。

肉体労働をせずにすむ人々の多くが、肥満や病気を恐れて健康維持に多くのエネルギーを費やしています。実は私も同じです。私はあまり出歩きませんから、しかたなく自分の部屋で毎日自転車をこいでいます。

部屋の中で自転車をこぐダライ・ラマ! なんとユーモラスな。

さて、今ダライ・ラマは日本にきています。20日には長野、22日には金沢、26日には横浜で、法話や講演があります。詳しくはWebサイトに情報があります。横浜では地下鉄の駅に講演会の大きなポスターが貼られていたそうで、日本での関心も高まりつつあるように思 われます。

石濱裕美子『世界を魅了するチベット』(三和書籍)を読みました。

チベットの仏教文化が西洋世界にどのように受け止められてきたかを、小説や映画などを手がかりに明らかにしていく本です。

チベットのような東洋のことは、同じ東洋人の日本人などの方が分かっているはずという予断を抱きがちかもしれませんが、必ずしもそうではないということがこの本から分かります。

例として最初に取り上げられているのは、20世紀最初の年に書かれたキプリングの『少年キム』です。当時の植民地獲得の時代背景と西洋人の思想的状況を説明し、キプリングが物語の中でチベット仏教僧に特別な役割を与えた背景を説いていきます。また、作者のチベット理解の程度も検証しています。

イギリスでは20世紀初頭には既にチベットに対して作者と読者の間に共有されるイメージが存在しており、チベット仏教もそれなりに理解されていたことが分かります。そこにはそれなりの必然的な背景があったということです。

『少年キム』のほかにも、シャーロック・ホームズの小説や、理想郷シャングリラを描いた『失われた地平線』といった20世紀前半の小説から、当時の時代背景とあわせて、西洋におけるチベットのイメージをあぶりだしています。

後半では、リチャード・ギアやロバート・サーマンといった著名人とチベットのかかわりや、映画の中のチベット、スティングやビョークといった歌手を取り上げています。

さて、我が国では、政権与党の政治家が日本の人口の少ない地方を指して「日本のチベット」と言って物議を醸したのが記憶に新しいところです。このようなお寒い認識しか持たない政治家がチベットを理解しているとは到底言えません。そのような国会議員を持っていることについて我々国民はもう少し真剣に考えた方が良いのではと思いました。当の議員はぜひこの本を読んで、認識を改めていただきたい。そうでないと西洋の知識人の前で恥をかくことになるでしょう。

前世や来世というのは、現代の日本人にとってはほとんど縁のない世界です。

が、チベット仏教の僧侶の話を聞いて、なぜそのような概念が有用であり得るかということは理解できた気がしました。

うまれかわりという概念があると、街ですれ違っただけの見知らぬ人でも、前世では自分の親や兄弟であったかもしれない。前世の前世の前世の、ずっと前までさかのぼれば、誰とでも何かしら深い関わりがあるんだよ、ということです。

つまり、誰に対しても分け隔てなく思いやりを持つために、前世やあるいは来世では身近な肉親であったかもしれないという気持ちを持つことが役に立つということです。

うまれかわりを心から信じるかというとなかなかそうはいかないけれども、それが役に立ち得る概念なのだということが分かったのが収穫でした。

翻訳の誤解

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チベット問題に関してよく、チベット側が求めているのは「高度な自治」だという表現を見かけます。今まではふーんそうなんだと疑っていなかったのですが、実はこの表現には問題があるそうです。下記のブログに説明があります。

チベット語から英語に翻訳されるときに「genuine autonomy」と表現されたものだが、元のチベット語で言われていることは「名実を共にする自治」なのだそうです。

英語になった「genuine」を日本語にするときに「高度な」になったのかもしれませんが、手元の英和辞典でgenuineを「高度な」といっているものはないので、どうして「高度な自治」と日本語でいわれるようになったのか、ちょっとよく分かりません。

英和辞典に載っている「正真正銘の」という語を使えば、幾分本来の意味(上に掲げた「名実を共にする」)に近付くように思えますが、どういうニュアンスで言われているのかは、やはり英語でなしに原文・原語に当たるべきなのでしょう。

英語だけで世界を見ることは時として危険ですらあると思います。これは立場を変えてみれば納得されるでしょう。英語しかできない人が日本情報を海外に流していたとして、そんなものの信頼性は危ういと普通思う筈です。

グローバル化をいうなら、アラビア語、ロシア語、スペイン語、インドネシア語、モンゴル語など、様々な言語を理解する人を増やす必要があるのでしょう。

bTibet 09にて、早稲田大学・石濱裕美子先生の講演「歴史上の大国モンゴルを魅了したチベット仏教」を聴いてきました。

石濱先生のブログにレジュメが掲載されています。モンゴルや歴史に興味のある方はご覧になると楽しめると思います。

モンゴル帝国というと、チベットの高僧パクパがモンゴル皇帝フビライの師として仏教を広めたことがよく知られています。この関係は時代が下った後もなぞられて、モンゴル人や満洲人がチベット仏教の施主としての役割を果たしたということです。(このことは一面では、中世のモンゴル帝国というものが後世にいかに大きな影響を与えたかということでもあると思います)

だいたい、ダライ・ラマという称号自体、16世紀にモンゴルのアルタン・ハーンから贈られたものだということからも、チベットとモンゴルの関係の深さがうかがえます。

面白いのは満洲人の清朝の時代です。満洲人はモンゴル人を同盟相手に選び、清朝が昔のモンゴル帝国を継承することを示すためにチベット仏教の施主としてふるまって権威づけをしたというのです。ダライ・ラマをトップとするチベット仏教はチベットのみならずモンゴルや満洲といった広い地域にわたって影響力を持っていたということです。ダライ・ラマに対して不敬だということが戦争の口実になったり、ダライ・ラマ6世の後継者の正統性をめぐって清朝とジュンガルが戦ったりするくらいなので、その権威たるや絶大です。

もっとも、馬に乗って戦う満洲人やモンゴル人のスタイルでは戦争に勝てない時代になると状況が変わります。20世紀になって社会主義勢力がモンゴルを覆うと、仏教寺院は破壊されて悲惨な時代に入ります(一面では、迫害された僧侶が亡命先のアメリカなど西洋に仏教を紹介する機会ともなるのですが...)。社会主義政権が崩壊した現在ではモンゴルでは一応自由に宗教活動ができますが、仏教が抑圧された期間が80年くらいと長きに渡ったために復興もなかなか大変だそうです。

と書いてみて思ったのですが、やはり私の怪しげな要約よりも石濱先生のレジュメを読んだ方がいいと思います。

法話の内容

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昨日書いたのは質疑応答の話だけですが、メインの法話自体の内容は石濱先生のブログにありますのでご参考まで。私もメモをとっていたのですが、石濱先生の方が確実でしょう。聴いた方がご覧になると復習になって良いと思います。聴いてない人がメモだけ読んで分かるかどうかは定かではありません。

こういう講演ではメモをとることが大事です。メモをとらないでただ聞いているだけだと、帰りの駅に着くまでにほとんど忘れてしまうことうけあいです。

昨日はダライ・ラマ法王の法話が東京・国技館でありました。

過去の経験からすると、こういうときバツの悪い思いをするのは大抵質疑応答です。思い入れが強すぎる人なのでしょうが、聞いていてアレレと思うような質問をする人が毎回必ず出るのです。

しかし今回の質疑応答の最後の質問ではいつになく盛り上がりました。質問者は十代と思しい少女で、自分が嫌いなのだがどうしたらいいか、どうしたら自分を好きになってあげられるのか、という内容。

「自分を好きになってあげられる」などという甘ったるい言い回しがもう、テレビの影響なのか何なのかそれこそ「アレレ」の範疇なのですが、この質問への法王の回答は熱のこもったものでした。

まず、他人に対する慈悲を持つためには自分を大切にすることが必要だということを言って、自己嫌悪を否定。そしてその次がポイントなのだけど、自分が嫌いだというのは、何か問題を抱えているときの自分が嫌いなのであって、リラックスしているときや楽しみを感じているときの自分は嫌いではないはずだ、そうでしょう? と質問者に確認したのです。口を両手で押さえながら頷く少女。であれば、そうした問題が起こらないようにすれば、自分を嫌いにはならないはずだ、と法王。

なるほど、そうなのだ。自己嫌悪といっても、四六時中切れ目なくいつでも自分を嫌い続けているわけではなくて、何かしら特定の条件下での自分を嫌うというだけなわけです。私の理解が正しければ、すぐれて仏教的な発想だと思いました。嫌いな自分という確固たる実体があるわけではなく、ある条件に応じて発生している現象にすぎないのであって、その条件がなくなってしまえば嫌いな自分というものも現れなくなるということです。

問題が発生したときは、自分が駄目なのだと思うのではなく、克服する良い機会だととらえて勇気を持ちましょう、と力強く励ます法王。いいなあ。

本当は、近所のお寺とかでこういうアドバイスをくれる人がいるといいのかもしれませんね。

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