考え方の最近のブログ記事

正義という言葉は、傾向として、自分の外側に「悪」を設定してそれをやっつけるという印象があります。言語学的にどうだかは知りませんし、辞書の定義とも違うと思います。単に、いち日本語ネイティブ話者としての私の主観的印象に過ぎません。ただ、英語辞典を引くと、"justice" の意味として「報い、処罰」があったり、大文字から始めて Justice とすると「正義の女神」という意味であるのだけどこの女神は剣を持っているというのだから、そんなに的外れでもない気がします。

一方、「よいこと」というのは、電車でおばあさんに席を譲ったり、恵まれない人に寄付をしたりと、穏当であることが多いように思います。勿論、よいことと称して悪いことをする人もいるわけですが。

個人の心がけとしては、他罰的な「正義」を追求するよりも、内省的に「よいこと」をするようにした方が、間違う可能性が少ないのではと思います。

正義というのは、ときとして独善的に使われることがあります。自分が正義の剣をもって人に斬り付けようとしていると感じたときに、正義感はそのままにして剣を振り下ろすのをやめ、攻撃的でない「よいこと」をかわりに実行するなら、より好ましい結果が得られるのではないでしょうか。イメージしやすい例がほしければ、誰かがネットで他人に攻撃的な言葉をぶつけようとしているところを想像してみてください。あるいは、誰かの些細な過ちをとがめて「炎上」させようとしているところを。彼にはきっと、彼なりの正義があるのです。

リンチという言葉があります。英語でlynchといって、アメリカに実在した判事の名前からきているのですが、法によらない私刑のことです。法が裁かないなら自分の手で裁くというわけですから、客観的に見た妥当性がどうであれ、一種の正義感から発生するわけです。

もっとも、中には、正義を振りかざすなんて間違いだといって、正義が悪いものであるようにいう人もいるようですが、それはまた極論であるように思えます。警察官や弁護士など、正義を追求すべき立場の人もいるでしょう。一般の人であっても犯罪を目撃したときなど正義を執行すべきこともあるでしょう。しかしここでは、あくまで、普通の人の日常の心がけとしてどうあった方が好ましいかということのヒントをいっているに過ぎません。

以前、「やなせたかしの正義」という記事を書きました。その内容をここでの話の文脈においていうならば、大東亜戦争を肯定するにせよ否定するにせよ、それはどちらかの側に正義を設定して他方をやっつけるという、「正義」の思考様式であることにはかわりありません。そのような正義が終戦の前後でころっとかわってしまったことに失望したやなせ氏が「腹ぺこの人を救う」というテーマに到達したことは、ここでいう「正義」から「よいこと」へと転換したのだといえるでしょう。

「よいこと」というのは、「正義」に比べると派手ではないし即効性もあまりないかもしれません。でも多分、長期的に効いてくるのは「よいこと」の方ではないかと思います。特に理論的な根拠はありません。私がそう思ってるだけです。

ここに書いたことが役立つと思うなら取り入れてもらえばいいし、役に立たないと思うなら忘れてしまってかまいません。

今の日本はいろいろな問題を抱えていますが、その背景には共通の性質があるように私には思われます。ここでは3つ挙げてみましょう。(なお、さっき思い付いたことなので、あまり根拠はありません。あしからず)

  • 現状維持という病
  • ゼロリスク指向という病
  • 強者・大衆・既得権に迎合する病

現状維持というのは、今までこうだったから変えたくない、これからも同じでいいだろうということです。変えない方が良いこともありますが、環境の変化に対応できなくなってしまうこともあります。

ゼロリスク指向というのは、リスクがあってはならないとする非現実的な考え方です。ものごとには良い面も悪い面もあるのが普通ですが、それを受け入れられない。少しでもリスクがあるなら受け入れられないという、硬直化した思考にとらわれると、何もできなくなってしまいます。リスクがあるなら、それを抑える方策を立てれば良いのですが。しかもしばしば、客観的・論理的な分析ではなく、事実に基づかない印象・イメージだけでリスクがあると認識されがちです。

強者・大衆・既得権に迎合するというのは、何か物事を是正しようとしたときに、それに反発する強者や既得権者に逆らえない、迎合してしまうということです。今日の大衆消費社会では大衆も一種の強者ですから、ここに含まれます。

これを現実の問題に当てはめて検討してみると、以下のようになります。

例えば、震災被災地の瓦礫の受け入れの問題。放射能が怖いという論調が出てくる(ゼロリスク指向)。声の大きい大衆に逆らえない(強者・大衆・既得権への迎合)。結果として、現状維持となってしまい、処理が進まない。

例えば、自転車の歩道走行の問題。自転車は車両であって車道を走るものなのに、歩道を走っているので事故が起こっている。これを改めようとすると、本当は自転車は車道を走った方が対自動車でも視認性が高まって安全であるのにかかわらず、自転車が車道を走るのは怖い・危険だという主観的印象的なイメージによる論調が出てくる(ゼロリスク指向)。さらに、車道を我が物顔で走ったり路上駐車したりして既得権を得ている自動車運転手や、車道を走ったことのないママチャリ市民の声に逆らえない(強者・大衆・既得権への迎合)。いま自転車が歩道を走っているので、現状維持でいいだろうということになる。何も改善されない。

例えば、文字コードの問題。JIS X 0208の問題を解消するJIS X 0213という規格ができたのに採用が進まない。新しい規格を採用するのは面倒だ、考えたくない、という現状維持指向。新しいものを採用してトラブルがあったらどうするというゼロリスク指向。大手OSベンダが採用していないのだからいいだろうという、強者・既得権への迎合。結果、従来の問題が温存される。

これらのほか、消費税でも年金でも、同じような構造を持つ問題が多いのではないかと想像します。

こうした病へのひとつの処方箋は、本当に大事なことは何か、本質的なことは何か、普遍的な価値観に合致するか、をよく考えることだと思います。現状維持という枠組み、ゼロリスクという制約、強者の既得権を、いったん前提から外して、本当に大事なこと、本当のこと、普遍的に価値のあることを考えてみる。

といっても、これまでなじんだ考え方が一朝一夕に変わることはないでしょうから、本当に大事なことを考えるトレーニングをしていくことが必要なのだと思います。

他人の意見に振り回されてばかりいる人がいる。誰それさんが何と言っていた。何という文章に何と書いてあった。他人の意見、時流に乗っていると思われる意見を自分の意見にする人である。こういう人は世間の流行に実に流されやすい。というか、流行の言説以外に自分の意見がないという方が正確であろう。

以前『「みんなの意見」は案外正しい』、という本があって、その内容を誤解した人がしきりに「みんなの意見」という言葉を振りかざしていた時期があった。みんなの意見を集めてきて意思決定する仕組みが必要だというのである。そんなのは流行の言説に付和雷同する人の発想である。実はくだんの本で言っているのはむしろ逆の話であって、他人の意見や世間の流行とは独立して考える人の判断を多数集めると不思議なことに正解に近付く、ということを言っていたものである (のだそうだ。私はこの本を読んでいない)。だから、流行に付和雷同する人を集めるのはかえって真実から遠ざかるということになる。大体が、「みんなの意見」が正しいのだと言われて何の危機感も覚えない人というのはどこかおかしい。みんなの意見に乗っかる以外のことを何もしていない人であろう。ちなみにこういう人は、みんながくだんの本を忘れてくると、自分自身もそれにあわせて「みんなの意見」と言い出すのをやめていったようである。

みんなの意見ばかり気にするのは、自分の中に大切なものがないからである。大切な価値観、大きく言えば倫理というようなものがあれば、それが思考の軸となる。自分の価値観がなければ、他人の意見を集めてくるくらいしかすることがない。

なら自分の価値観がありさえすればいいかといえば、そういうものでもない。間違った価値観、信念を持ち続けていたのでは不毛であり有害である。9・11テロの実行犯は強固な価値観を持っていたのだろう。自分の中にある価値観が、普遍的に良いとされるものであるかどうかをよく吟味して適宜修正しなければならない。

当ブログの初期の記事、「やなせたかしの正義」は人気がある。これは、第2次大戦の敗戦を通じて世間的にいわれる正義などというのが実に頼りないものであることを痛感したやなせ氏が、時代や国を超えた普遍的な正義を自分なりに考えた話である。流行の言説を追いかけるのとは真逆の話だ。

小手先のテクニックでなしに、何が本当に大切なのか、なぜそれが大切なのか、という問いを自分に向けて発し続ける必要がある。何が大切かという価値観を作るのは教養であろう。いま大変にないがしろにされている分野である。

流行の言説に振り回されずに大切なことを考えるのには、Twitterのようなものは不向きであろう。騒がしい情報を遮断して、人の少ないところにいた方が、大切なことを考えるのには向いているかもしれない。

東洋史学者の宮脇淳子氏の講演で聞いたことなのですが、韓国のハングルは中世モンゴルのパクパ文字を元にして作られたという説があるが、韓国人にこれを言うと怒るのだそうです。余所からの影響を全く受けずに朝鮮半島の人々がハングルを独創したのだと、現代の韓国人は思いたいものらしい。

ちなみになぜ朝鮮半島がモンゴルの影響を受けるかというと理由がある。モンゴル帝国が高麗王国を征服すると、代々の高麗王はモンゴルから皇女を娶ることになって、その子供はモンゴルの宮廷で成長することになった。高麗王室が半ばモンゴル貴族化するわけです。その中でモンゴルの文化が高麗にもたらされたと考えられます。

それはともかく、自国の文化が全く他と断絶して生成発展するのが偉いという考え方には、あまり根拠がないように思います。

例えばゴッホの絵が日本の浮世絵の影響を受けたからといって、それをもってゴッホの絵の価値が下がるわけではない。また、ゴッホの絵は我が国起源だなどと日本人が威張るのも筋違いというものでしょう。

いま世界にたくさん輸出されている日本のアニメはかつてアメリカのアニメの模倣から始まったものだろうし、その日本のアニメが発展すると今度はハリウッド映画の「マトリックス」に影響を与えたりもする。

文化というのは大体において互いに影響を与えあって良いものを取捨選択しながら発展していくものだと思います。

余所からの影響を隠してあたかも自分が全て独創したかのように主張するのはあまり健全でないのではないか。それよりも、世界中から学んで、世界一良いものをつくるのだと言う方が、好ましいように思います。

もちろん、模倣に始まっても単なる模倣に終わらないことも大事です。

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