文字の最近のブログ記事

笹原 宏之『漢字に託した「日本の心」』 (NHK出版新書) を読みました。

漢字は古代中国から渡ってきたものですが、日本では中国とは異なる使われ方やとらえ方をされているということが分かります。中国では音が重要なのに対し、日本では言語としての音とは別に意味を表すという傾向が示唆されます。本書の例でいえば、料金表の「大人・小人」のような「小人」は何と読むのか分からないが意味は通じるといった具合です。

現代の漢字の簡略化でも、中国のそれは文字の音が重視され、発音の同じで画数の少ない文字を借りて簡体字とすることがしばしばあります。例えば中国の通貨の「元」ですがこれはもとになっている漢字「圓」と同じ発音の「元」を借りたもので、字の形を略したものではありません。日本では「圓」の字の形を略した「円」になり、韓国では「圓」の読みのウォンを採用するけれども漢字はもう使っていないという、同じ字がベースになっていても三者三様のあり方が見て取れます。

本書に挙げられている別の例で言えば、現代中国で「穀」を「谷」とするのもやはり音による簡化で、一方、日本語では「たに」「や」など地域により異なる音で同じ概念をもつ言葉に「谷」をあてるという (東京の「渋谷(しぶや)」のように、「や」は関東地方に多い言い方)、異なったあり方になっています。

さらに、同じ言葉でありながら字面の雰囲気で文字を選り好みするという傾向も日本独自のものとしてみられます。「ひざし」という語について「日差し」「日射し」などの表記のイメージを学生に調べたことが述べられています。また人名ともなると、文字のイメージやさらには文字を構成要素に分解してのイメージによって使われることもあり、日本の漢字は表語文字・表意文字から離れて「表イメージ文字」とでもいうべきものになりつつあるのではないかと述べられています。

字の構成要素を文字そのものよりも重視するようになるととんでもない勘違いのもとになります。本書の例では、「月」と「星」のイメージから子供の名前に「腥」という字を使おうとしたという話があります。勿論これは「なまぐさい」という字です。

本書は実に様々な例を持ち出しているのですが、私が面白いと思ったのは歌についてです。流行歌の歌詞において「ジャスミン茶 (ティー)」のように漢字に独特なルビを振るのは、本来的に声として聞かれるべき歌詞でこうしたことが行われるというのが面白い現象だと思いました。歌詞の表記を凝ったとして聞き手にそのこだわりが届くものでしょうか。ちなみにコスモスという花を「秋桜」と書くのは流行歌から普及したのだそうです。

漢字・平仮名・片仮名という3種類の文字を使い分ける表記体系において字面のイメージを全否定することはできないとしても、文字の本分として、辞書的な意味、語義というものを重視した運用にしていかないと、言語表記がいたずらに煩雑化してなおかつ大した意味がない、ということになりかねないのではと懸念します。

前野直彬『漢文入門 』(ちくま学芸文庫)を読みました。

本書は1968年に刊行された本の復刊だそうです。

書店でなんとなく惹かれる雰囲気があって手に取ってみたのですが、まず「まえがき」にすっかり引き込まれました。

くりかえして言うが、「漢文」を宣伝するためでもなく、「漢文」の学力を増進させるためでもなく、ただ「漢文」とはどのようなものかということを明らかにするだけの目的で、私はこの本を書く。

漢文とはどのようなものだったでしょうか。漢文の具体例として学校の教科書に載っているようなものを思い浮かべることは簡単ですが、きちんと定義しようとするとそう単純ではありません。

私自身は今のところ漢文を読む必要性はあまりないのですが、漢字、特に日本語におけるそれには興味があります。漢字についての理解を深めるのに漢文の知識が役に立つことは改めて説明する必要はないでしょう。

漢字に興味があって、上のまえがきの一節に何か感じるところがある人は、きっと本書を読んで損はないと思います。あまり厚くないし、前提条件として専門的な知識も必要ありません。

最初にお断りしておきたいのは、漢字と平仮名の使い分けには「これこそが正しい」という絶対的な決まりがあるわけでなく、要するに読んで意味が通じればいいものであるということです。

では「読んで意味が通じる」かはどう判断するかというと、常用漢字表に載っている、あるいは市販の国語辞典を引けば分かる、というあたりが指針になるでしょう。

その上で、どのように漢字と平仮名を使い分ければいいか、私の考え・方針をこの記事に記してみます。具体的な方針に入る前に、日本語表記に漢字を使うことの利点と欠点を考えます。

漢字仮名交じり文の利点

日本語は平仮名だけあれば書けるのですが、ではなぜ面倒くさい漢字を使うのか。いくつか利点があります。

  • 分かち書きをしなくて良い
  • 同音異義語の書き分け (「公園・講演・後援」、「雨・飴」など)
  • 高級語彙の理解の手助け (「かしじょうみゃくりゅう」が何だか分からなくても「下肢静脈瘤」という字を見れば見当がつく)
  • 文字数が少なくて済む

漢字があることによって読みやすい・分かりやすいということが重要です。そうでなかったら平仮名だけでいいんですからね。

漢字の日本語表記における難点

一方、漢字による難点・欠点もあります。ここでは日本語表記の場合のことを言っているので、漢字であっても中国語など外国語の場合には当てはまらないものもあります。

  • 文字数が多くて学習が大変
  • 形が複雑で学習が大変
  • 1文字の読みが複数あって学習が大変
  • 読みの定まらないことがある (「止める」(とめる・やめる)、「歪み」(ひずみ・ゆがみ)、「酷い」(むごい・ひどい)など)
  • 同じ語の書き方にバリエーションが多い (例えば「バラ・ばら・薔薇」。ちなみに「薔薇」は本来は漢語で「しょうび(そうび)」)

したがって、利点を活かしつつ、欠点を抑えるような運用方法が望ましいといえます。

私の方針

漢語はなるべく漢字にする

ここで漢語とは「漢字からできた言葉」ぐらいの意味でいっています。漢字を音読みにする単語と言ってもいいでしょう。「読書」「登山」などです。こういうのはなるべく漢字で書きます。ただし、元の漢字の意味があまり意識されないものは平仮名で書くこともあります。(副詞の「だいたい」「ふだん」「いったん」など)

漢語には同音異義語が多く、漢字で書かないとどれのことか分からないことがしばしばあります、例えば、上記の「こうえん」や、ほかにも「せいき」→「世紀・正規・生気・精気」など、いくらでもあります。また、語の成り立ちとしてこれらは、元々音声言語として存在していた大和言葉とは異なり、漢字によって作られたものであるわけですから、漢字で表記することが言葉の理解のために適当であると考えられるでしょう。

形態的なまとまりを意識する

漢字が連続しているとひとまとまりの語として認識しやすいことを利用します。漢字だけで書ける単語の中に平仮名を交ぜる「交ぜ書き」はなるべく用いません。

したがって、「子ども」「友だち」ではなく「子供」「友達」とします。なお、これらの語の「ども」「だち(たち)」は元々は複数を意味しますが、現在では「こども」「ともだち」でそれぞれ単一の語として扱われ、複数としての意味が薄れています。「男ども」「女ども」のような例を考えると、「子ども」のように平仮名で書くと、却って複数としての意味が強調されてしまうように私には見えます。こうしたことからも漢字だけで書く方が適当と考えます。

また、漢字の語が連続すると区切りが分かりにくくなるので、紛らわしい場合には連続した語のどちらかを仮名に開くことを検討します。これが起こりやすいのは文頭の副詞の場合です。「今行ってきた」とあると「今行」という語のように見えてしまい、いやそんな語はないぞと、余計な判断が増えてしまいます。「いま行ってきた」ならすんなり読めます。この場合は「今」の後に読点を打つという解決方法もありますが、意味の修飾関係や読んだときのリズムを損ねないよう注意が必要です。

同様に平仮名ばかりが連続すると語の切れ目が分かりにくくなるので、やはり避けるようにします。

大和言葉に対応する漢字が複数あって使い分けが面倒な場合は平仮名に開く

面倒なら開く、というのはいい加減に聞こえるかもしれませんが、大和言葉の場合には多分かなり本質的に適切な方針だと考えています。

例えば大和言葉「はかる」に対しての漢字表記は「計る」「測る」「量る」と複数あるわけですが、どれが最も適当かはなかなか難しいことがあります。辞書を調べて「この場合はこれだ」と追求してもいいのですが、判断が難しければ「はかる」と平仮名でも構わない、ということです。そのとき言いたかったのは大和言葉の「はかる」であって、(古代中国の言語体系に基づいた)漢字ではなかったのでしょう。

いちいち断っているように、これは大和言葉の場合、いいかえれば訓読みの場合ですので誤解なきよう。

読みの曖昧な漢字はなるべく使わない

上にあげた「止める」「歪み」の例のように、どちらに読めばいいか分からない場合は漢字を使わず平仮名にします。文脈を考えれば判断できることもありますが、なるべく立ち止まらずにすんなり読めるようにします。

ただし別の要因とのトレードオフも考慮します。平仮名が連続して読みにくくなる場合に、どちらを優先するかといった問題です。状況によっては振り仮名を使うのも手です。

例えば私は「平仮名」「片仮名」のように、これらの語を漢字で表記します。これは上述の形態的なまとまりを考慮してのことです。しかし単に「仮名」とすると、「かな」なのかそれとも別の単語の「かめい」なのか、分かりづらいことがあります。なので、単独で「仮名」とはなるべく使わず、「平仮名」「片仮名」にするとか「仮名文字」のようにするといった工夫をします。技術的に可能なら振り仮名を使って「仮名(かな)」とするのもいいでしょう。表記上の不統一をいとわなければ「カナ」のようにする手もあります。

あまり難しい漢字や特殊な読みは使わない

老若男女、また外国語として日本語を学んでいる外国人も読むことを考え、あまり難しい漢字や特殊な読みは用いません。常用漢字表は良い目安となるでしょう。

もっとも、特定分野の専門用語に難しい字が出てくるのは仕方ないところがあります。そういうのは無理に平仮名にすると却って分かりづらかったり読みづらかったりすることがあるので、読み仮名を振ったり初出の際に説明したりします。特に複数の熟語で使われる漢字は、仮名に開かずにむしろ積極的に漢字を使った方が良いでしょう。

一方、特殊な読みを指定したり、固有名詞だからといって無闇に旧字体や異体字を振りかざしたりするのは控えた方がいいでしょう。字を変にいじって悦に入るのは十代で卒業しておくべきです。

他人の用字を間違いと決めつけない

これは自分が書くこととは違うのですが、他人が自分にとってあまり見慣れない用字をしているときに無闇に間違いと決めつけるのは良くないですね。

例えばあるウェブサイトで「〜して下さい」のような「下さい」を漢字で書いたら間違いだみたいなことを書いていたのを見た覚えがありますが、全然間違いじゃない、きちんとした日本語表記です。大辞林にだって例文として載っています。こういう補助動詞を平仮名で書くのを選好する考え方があるのは分かりますが、あくまでも趣味の問題でしかない。

他人の用字が間違いではないかと疑問に思ったら辞書を引いてみるのが良いでしょう。知らなかったことがきっと載っているはずです。

以前、「函館」の「函」の字の第1画について書いたことがありました。活字だと第1画の横線が右端まで行ったところで一旦筆を上げて真ん中あたりから第2画を始めるような格好なのが普通ですが、手書きだとここを離さずにつなげて書くのをよく見かけるという話です。函館では本当の手書きだけでなく、看板などにもよく見ます。

さてこれに関係して、一見関係なさそうな下のツイートが目にとまりました。

結城浩さんの人気シリーズ「数学ガール」の一冊、『数学ガールの秘密ノート/丸い三角関数』の繁体字中国語版についてのツイートです。この画像の中には「函数」(関数)という言葉の表記のために「函」という漢字が出てきます。その字体が先に述べた、函館でよく見かける形になっています。

おや、台湾では (師範大学云々と見えるので多分台湾の出版社だろう) この字体が活字でも普通なんだろうか。そう思って、ISO/IEC 10646の例示字形を見てみました。ISO/IEC 10646はUnicode相当の国際規格ですが、Unicodeと違って、漢字については日本や中国、台湾、韓国等の対応する国家規格の例示字形も載せています。

それで気付いたのは、日本で現在普通の活字の「函」と同じように第1画が右端で終わっているのは(以下仮にα形と呼ぶ)、日本(J欄)と韓国(K欄)のものだけでした。その他は台湾も含めて全て、上記の「函館でよく見かける形」のように右端で折り返す形でした(同じくβ形と呼ぶ)。韓国の漢字の活字というのは日本の戦前の活字の影響を受けていると思われるので、要はα形は日本の活字に独特のデザインなのではないかと思い始めました。

近代の明朝体活字のデザインは清代中国の康熙字典に影響を受けているとされています。康熙字典でこの字はどうなっているのかと、ネットで検索できるもので見てみました。すると、見出しの字体はα形ですが、その下の説明文ではβ形になっています。前掲の記事の中で紹介した笹原先生のコラムの中でも、「『康煕字典』ですら、注文の中では「了」形が用いられており」と記されています。「了」形というのは本記事でいうβ形です。また、

歴代の書家などの筆跡を辿ると、楷書でも行書でも、「函」「凾」ともに「了」形がほとんであり、「函」という明確な字体はなかなか見当たらない。

としています。

以上のことからすると、普通だと思っていた「函」の形(α形)の方が、実はちょっと特殊なんじゃないかという気がしてきます。康熙字典の形だといっても、見出しのすぐ下で別の形(β形)が使われていて、そっちの形の方が実は主流だったのではないかと。限られた情報からの推測にすぎませんが。

もっとも、上記笹原先生のコラムにあるように「成り立ちからみれば、字形の細部にはさほどこだわる必要がなさそうだ」というのが実際のところでもあるのでしょうから、どっちが正しいとか本当だとかで無駄な労力を費やす必要はないように思います。

関連しているけれども違うもの、というのがあって、しばしば混同されます。

言語と文字

文字は言語を記すために使われますが、文字と言語は同じものではないし一対一に対応もしません。

どういうことかというと、ラテン文字は英語だけでなくフランス語ドイツ語ベトナム語インドネシア語等さまざまな言語の表記に使われます。そもそもが、「ラテン」文字というくらいで、英語のために作られた文字ではありません。

また、平仮名・片仮名は日本語の表記によく使われますが、アイヌ語の表記にも片仮名が使われますし、またさまざまな外国語の音を写すのにも(しばしば不十分ながら)使われます。「グーテンターク」が日本語でなくドイツ語であることは明らかです。

漢字のフォントのデザインは日本と中国・台湾とで異なります。これは言語の違いによるものではなく、それぞれの地域における活字設計の方針の違いによるものです。

文字コードとフォント

文字コードとフォントは互いに関連しますが、別のものです。

文字コードは文字の種類に符号化表現を割り当てたコード体系です。一方フォントは、具体的な字形を出力するための図形データの集合です。

文字コード表には文字の形が載っていますが、あれは一般的に「その符号位置に対応するのはどんな文字か」を示すためのものであって、フォントの形を規定するものではありません。つまりある符号位置の升目に「人」という字が載っているなら、それは「私たちが知っているあの『人』という字」ということを指しているのみであって、「人」という字の具体的な形をどう実現するかは文字コードのあずかりしるところではありません (もっとも、他の漢字と区別がつくようにする必要はあります。例えば1-38-94「入」と区別がつかないと困ります)。

JIS X 0213の2004年改正のときに、「謎」という字のしんにょうが1点か2点かという話が文字コードの問題であるかのように言われたことがありましたが、それは文字コードではなくフォントの問題です。ただし、両者の字体を区別して異なる符号位置を与えるなら(実際にはそのような必要はありませんが)それは文字コードの問題になります。

記号とその指すもの、それに文字コード

記号とその記号の指し示す概念とは、関連はしますが区別する必要があります。そして文字コードが符号化するのは記号の方です。

例えば「$」という記号は通常「ドル記号」のように呼ばれ、米国等の通貨を表すのに使われます。しかしこの記号が指し示すものと、記号そのものとは、当然関連してはいますが別のものです。米ドルとカナダドルと豪ドルとは同じ「$」記号を使っていても異なる通貨です。またプログラミング言語では変数を示すのにこの記号が使われることもありますし、正規表現では文字列終端を意味します。もし「$」が米国の通貨を指すのにしか使えないとしたらこうした使用はできないことになります。また、ASCIIの0x24というコード値に対応するものは「$」という記号であって、その記号が指す(例えば)米国の通貨という概念そのものではありません。「$」という記号の具体的な視覚表現にはこの記号として認められる範囲があります。例えば縦線が1本でも2本でも同じ記号と見なされますし、縦線が通じているか途切れているかという表現上の違いもありますがいずれにせよ同じ記号です。

同様に、ASCIIの0x52というコード値に対応するのはラテン大文字のRという(記号としての)文字であって、英語のR音やドイツ語のR音や日本語のラ行子音といった概念ではありません。もし特定の言語の音を示すためにしか使えないとしたら、気体の状態方程式 pV=nRT のような用法には使えなくなってしまうとも考えられます。

同様に、JIS X 0213の1面5区2点は平仮名の「あ」という文字を指しているのであって、この文字で示される日本語の音韻としての「あ」音を符号化しているわけではありません。平仮名や片仮名が日本語表記だけに使われるとは限らないことは上述のとおりです。もし記号ではなく音韻を符号化しているのだとしたら、「私は」のようにワと発音される「は」はどうなるのでしょう。

同様に、JIS X 0213の面区点1-20-89は「机」という(図形を抽象化した概念としての記号であるところの)文字を符号化しているのであって、「つくえ」という字義や単語、あるいは「キ」のような読みを符号化しているわけではありません。面区点1-32-24に対応する「生」という漢字は日本語表記では「なま」「いきる」「うむ」など、読みも意味も異なる単語の表記に使われますが、ひとつの符号位置が対応します。読みや意味が違うから分けるということはしません。もしそうしたら実用上とても面倒です。

こうしたことを頭においてJIS X 0208:1997の本文および「解説」を読むと面白いでしょう。

「平仮名」「片仮名」では迷わないのですが、両者を総称する「仮名(かな)」という言葉を文字に書こうとすると迷いが生じます。

というのは、漢字で「仮名」とすると、「かめい」と別の言葉に読まれる恐れがある。大体の場合は文脈からどちらか分かるのですが、文章を読んでいる途中でどちらなのか判断する時間がちょっと生じてしまうようです。例えば「ほかは漢字なのにここだけ仮名です」のような文があったら、「かな」であることは文脈から分かるのだけど、「ここは『かめい』じゃなく『かな』だ」と念を押すような働きが頭の中で行われていてスムーズでないように感じられます。なるべくこういうのは避けたい。

それなら平仮名で「かな」と書いてはどうか。この場合は、前後の平仮名の中に埋没して読みにくくなりがちであるように考えられます。このブログ記事のタイトルが実例です。特に、「煮えたかな」のような「かな」という言葉がありますから、これと紛らわしい。「ここだけかな」とだけあったら、ほかは漢字で「ここだけ仮名」なのか、それとも、「ここだけかな?」と自問しているのか、どちらなのか。

変化球として片仮名で「カナ」とすることも考えられます。上記2点の問題はこれでクリアできます。ただ、あまり一般的でないかもしれないのと、特に片仮名のみを指していると受け取られる恐れがないではありません。「フリガナ」と片仮名で書かれていたら片仮名で振り仮名を書くことが期待されているのと同じようなことです。実際、申込用紙のたぐいでない普通の文章であっても、平仮名という言葉を「ひらがな」、片仮名という言葉を「カタカナ」と、言葉の指す文字で表記することがないではありません。そういうつもりで「カナ」と片仮名書きしているのではないのだと念を押す必要があるかもしれない。

一案として、平仮名で「かな」として、なおかつ分かち書きして前の語と分けることも考えられないではありません。が、仮名漢字まじり文の利点として分かち書きしなくていいことを挙げられますので、これはなるべくしたくない。見た目の違和感も大きいと思います。

結局、どうすればいいのかはよく分かりません。どれも一長一短と思えます。本記事冒頭のように漢字にルビをつけるのが一番いいのかもしれません。

前の記事に部首画数順という言葉が出てきました。「ああ、部首ね」と、どういうものか分かるかと思いますが、細かく見ていくと、部首というのはあまり分かりやすいものでない。部首ってなかなか厄介だ、というお話を少し。

例1 「巨」の部首

「巨」の部首が何であるか知っているでしょうか。漢字に詳しい人は知っているでしょうけど、学校教育を普通に受けただけでこの問いに正確に答えられる人は多くないでしょう。

模範解答は「工」です。漢和辞典には工部2画として掲載されています。「巨」の中に「工」が見当たらないので訝しく思うかもしれませんが、実は元々「巨」という字は「工」の縦線に「コ」型がくっついたような形だったのです。それが変化して今の字体になった。それで今でも「工部」に分類されているのです。と、まるで見てきたように言っていますが、ものの本で読んだことの受け売りです。ちなみに辞書によっては利用者の便のために異なる部に配置しているものもあるそうです。

例2 門構えの漢字の部首

もうひとつ。「問」「間」の部首はそれぞれ何であるか分かるでしょうか。どちらも門構えがついているから「門」でしょうか。

ところがそうではなく、「問」は口部、一方、「間」は門部に属するとされています。似た構成なのに部首は違うんですね。ちなみに「聞」は耳部で、「開」は門部。何がどうなっているのか。音読みがモンであるものは門部ではない、ということに気付いたでしょうか。形声文字に意符・音符という要素がありますが、「門」が音符となっていれば、その「門」は部首ではないわけです。例えば形声文字の「誠」の部首が「言」であることはすぐ分かると思いますが、部首でない方の「成」が音符として働いているわけです。これと同じです。

あまり調子に乗るとボロが出そうなのでこの辺でやめますが、いいたいことは、部首というのはそう簡単でない、結構面倒だ、ということです。

部首とはそもそも何なのか

実は「部首」という言葉自体も面倒というか、誤解されているなと感じることが時々あります。例えば「誠」の部首として「言」と「成」の両方を挙げてしまうような話し振りを聞くことがあるかもしれません。これは間違い。

部首というのは、漢字を構成要素に基づいて分類した「人部」や「火部」や「言部」などの「部」の、「首」つまり冒頭の文字を元々いうのです。漢和辞典で「人部」を見ると、にんべんのついた漢字がたくさん並んでいるその先頭に「人」という字があるはずです。これが「部首」。だから「誠」の部首は「言」であって(つまり言部に所属するということ)、「成」ではない。

現在使われている部首は18世紀の康熙字典に基づいたものですが、それより昔の字書では異なる分類があって部の数も変わっているので、大昔から不変のものというわけでもありません。

考えるに、部首がまずあってそこから演繹的に個々の漢字ができたわけではなく、山のようにたくさんある漢字をどうにか分かりやすく分類・配列しようとして編み出されたのが部首という方式であるとすれば、そう整然としたものになってくれないのも無理からぬことでしょう。

札幌市民ならいつとはなしに気付いていることですが、JR駅が「札幌」駅なのに対して、このJR駅と接続している地下鉄駅は「さっぽろ」駅と、平仮名になっています。どういう理由かは知りませんが、わざわざ違う字にしているのは意図的なものなのでしょう。

ですが、このような区別をすることに本当に意味があるでしょうか。そもそもが同じ土地を指す同じ言葉です。

目で見たらJRか地下鉄か区別できる、という意見があるかもしれませんが、耳で聞いたら同じです。目で見れば分かる、というのは、目で見ないと分からない、ということでもあります。視覚障害者は区別できなくていいのでしょうか。また、漢字や平仮名を読めない外国人はローマ字で書かれた「Sapporo」という字を読むわけです。

もし鉄道事業者ごとに字を変えるということだと、東京の渋谷駅はどうなるでしょうか。JRは「渋谷」、東京メトロは「しぶや」、東急は「シブヤ」、京王電鉄は「Shibuya」とローマ字まで繰り出すことになるのでしょうか。もちろんそんなことをする必要があるとは考えられません。

以前、市町村合併の動きが盛んだった時期に、北海道の空知地方の一部に、いくつかの町が合併して「東さっぽろ市」というのを作るという話がありました。「東札幌」だと既に札幌市内に地名も地下鉄駅もあるので具合が悪い、それなら平仮名にしたらいいだろう、ということだったようです。しかし、漢字を平仮名にしたら別ものだという発想は納得し難い。やはり声に出したら全く同じです。サッポロという地名をヒガシで修飾したということだから、本来的にそれは同じ言葉だといえます。ちなみにこの合併話は途中で消滅したようです。

漢字か平仮名か、というのは言葉の区別には意味のないことです。言葉の区別のうえで意味をなさない表記上の違いをやたらに増やしたりそこにこだわったりするのは、煩雑さを増やすだけのように思えます。

寄付と寄附

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あるNPOの人とやりとりしているときに、あれっと思ったことがありました。

こちらが「寄付」と書いた直後に「寄附」と書いてきたのです。もっとも、そのすぐあとには「寄付」としていたので、別段絶対にどちらかの用字でなければならないというポリシーではないように見受けられました。仮名漢字変換の学習され具合でそうなったのかもしれません。

どちらの漢字も世の中で見かけますが、さてこれらの関係はどうなのか。

国語辞典にあたってみると、「寄付・寄附」と、どちらの漢字も掲載されています。

漢和辞典を調べてみると、「付」という漢字には「つく」「つける」とともに「手渡す」という意味があるということです。「付与」「交付」等。字の成り立ちとしては会意で、つくりの「寸」が手の形を表し、他人の体に手をぴたりとくっつけることを示すのだそうです。一方「附」はもともと土盛りや小さな丘を意味する漢字だったのがのちに「付」と通用するようになったのだということです。(「漢字源」を参考にしました)

通用するようになった時期までは漢和辞典に載っていませんでしたが、多分かなり古い時期だろうから、要はどちらでもいいのでしょう。

ただ、役所の文書では「寄附」の表記が使われるようなので、上記のNPOの人の漢字変換辞書は役所とのやりとりのうちにそれに合わせるように学習されたのではないかと想像します。

函館の文字

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函館の有名な老舗洋食店・五島軒の人気メニューのカレーは、レトルト食品にもなっていて、首都圏のスーパーでも販売されていることがあります。

そのカレーのパッケージをよく見るとこんなふうに文字が印刷されていました。

五島軒カレー

函館の「函」の第1画と第2画をつなげて書いています。

函館の人はこう書くことが多いようです。私の個人的な関係者に函館やその周辺の人がいるので、私はこうした字形を以前からよく見ています。割と普通のことだと思っています。

これは早稲田大学教授の笹原宏之氏の「漢字の現在」の記事で取り上げられたことがあります。

昔からどちらの形にも書かれてきたもので、このような些細な形の違いを気にする必要はなさそうだと理解しました。

もう一点、店名のローマ字表記が「GOTŌKEN」と、きちんと長音を明示しているのが偉いと思いました。「GOTOKEN」では「ごとけん」になってしまいますからね。

これは五島軒のウェブサイトの画像でも見ることができます。

登録有形文化財の五島軒の建物は結婚式場としても人気があるそうですから、料理と建物と文字のそれぞれに注目してみるといいかもしれません。

以前私が撮影した外観。うーん、いま見ると撮り直したいな...。

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