言葉の最近のブログ記事

曖昧な言い方が好まれる風潮があると感じています。しかし、仕事の文章のような正確さが重要になる場面でまでぼかした言い方をするのは望ましくありません。説明や論述の文章では言葉の明晰さを重視すべきです。

「など」という言葉は曖昧にするのによく使われます。ここではこの言葉の使い方を取り上げます。

「など」と書いたら、「ほかには何が」と問う

「リンゴやミカンなどを買ってきた」というと、ほかにはバナナやイチゴもあるのかな、と思います。このように、「など」という言葉は、「ある語に添えて、それに類する物事が他にもあることを示す」(広辞苑) ために用いられます。

しかし、必要もないのに「など」をつけてしまう例が時折見受けられます。会話の中で思いつきでしゃべっているような時はともかくとして、ある程度正確さが要求される文章では、「など」と書いたら「ほかには何があるんだっけ?」と考え直してみましょう。もし、該当するものが既に挙げたものしかないなら、「など」は要りません。

例をひとつだけでなく複数出す

上の例文、横着して「リンゴなどを買ってきた」と例示を一つだけにすると、リンゴのほかにどんなものがあるのかが曖昧です。相手や文脈によって、言わなくても通じる状況なら別ですが、一般的には複数の例を出してほかに何があるのか推測しやすくするのが適当です。上記の例のように「ミカン」を付け加えれば果物シリーズになりますし、ほかには例えば「リンゴやきりたんぽ、わんこそばなど東北の味覚」というように、別の種類のものを並べれば別の意味になります。

他の意味の「など」もある

補足しておくと、「など」という言葉にはここで扱った用法のほかにも、「軽んじて扱う場合」「引用文を受けて、大体このようなことを、の意」(ともに大辞林より) といった意味もあります。これらの場合には上記の説明が当てはまらないことはもちろんです。

DeNAのキュレーションサイトWelqの大炎上に端を発して、様々な「キュレーションメディア」の問題が注目されています。他のサイトから著作権無視でパクった文章や写真をつなぎ合わせただけのいいかげんな記事をありえない激安報酬のクラウドワーカーに大量生産させてSEOテクニックでGoogle検索上位を独占している、といった問題です。

ここではこの「キュレーション」なる語に注目してみます。キュレーションサイト問題を扱ったネットの記事では、キュレーションというのは本来は高度な知識を要するものなのだ、といっていたりしますが、それはどれくらい本当か、というのも問題意識にあります。

一般向けの辞書を引いてみる

研究社の新英和中辞典では、curatorという単語に、「(博物館・図書館などの)館長、主事」という説明が与えられています。いわゆるキュレーションというのは、この語から逆成した造語ではないかと思います。というのは、同辞書にはcurationという単語は立項されていないからです。同じく学習者向けという位置付けの、英英辞典 Longman Dictionary of Contemporary English 4th Editionでも同様です。

おそらく、「curateという動詞があってそこからcurationやcuratorという名詞ができた」となんとなく思っている人がいると思いますが (私は最初そう思った)、辞書を引いて分かるところでは、そうではありません。

curateという語は動詞でなく名詞で、キリスト教の教会の役職を表す言葉のようです。英和中辞典では「(教区の)副牧師」「助任司祭」、Longmanでは「a priest of the lowest rank, whose job is to help the priest who is in charge of an area」とされています。ラテン語からきており、cureと関係のある言葉です。

図書館でオックスフォード英語辞典 (OED) 第2版をひいてみると、curate, curatorとの並びにcurationという語もあります。これも教会関係の語で、cureすることが中心的な意味になります。これらの語の説明のうち、博物館の管理業務のような現代的な意味はcuratorの語の項目の最後に記されているのみです。curationという語にはそのような意味は記されていません。

Digital curationという用法

Google Scholarを検索してみると、2000年代からdigital curationという語が学術論文で使われるようになったようです。きちんと調べたわけではなくいくつかの記事の梗概を見ただけですが、これは蓄積されたデジタルコンテンツを将来にわたってアクセス可能にするために維持管理していく活動を指しているようです。おそらく、curatorという語から、博物館の収蔵品の管理という意味合いに基づいて派生した語法ではないかと思います。

ここには、ネット検索で出てきたものを切り貼りしてサイトを作るという意味はありません。

そして今問題の「キュレーション」は

そこから先の展開はまだ追っていない (というか、どういうふうに誤解ないし我田引水したのか、先が読める気がして興味が潰えた) のですが、多分ウェブ業界の人がさらに独自の意見を加えて今の「キュレーションサイト」につながったのだろうと推測します。

もっとも、何も維持管理してなくてウェブの検索結果をコピペしてくるのが「キュレーション」というのはかなり無理があるように思えます。少なくとも何も「cure」していない、むしろ損なっているものの方が多いのではないでしょうか。

おわりに: 辞書くらい引こう

言葉について何か言いたいなら、まずは辞書を引くことだと思います。本当はどのような性質の辞書かということもあわせて考慮する必要があるのですが、それにしても辞書の一つにもあたらないで分かったつもりでいるよりは、何でもいいから手近な辞書を引いた方がずっと得るところがあります。

お疲れ様問題

もう結構前の話題なのですが、近年やたらと濫用される「お疲れ様」という言葉にタモリが異を唱えたという記事がありました。

「子役が誰彼かまわず『お疲れ様です』といって回るのはおかしい」とのことで、確かに私も小さな子供に「お疲れ様」などと言われたら「は?」と思うでしょう。

この記事では、目上の人に向かって言う言葉ではない、というのが論点になっています。

通俗的なマナー本の類では「ご苦労様」は目上に言ってはいけなくて「お疲れ様」なら良い、ということになっているようです。これは根拠がありません (え、マナー本に書いてあるって? じゃあその本の著者がそう書いた根拠は何でしょう、という話です)。どちらも、労をねぎらうという意味では同じです。

「お疲れ様」と「ご苦労様」を辞書で調べてみる

三省堂の大辞林第2版には「おつかれさま (御疲れ様)」の項にこう記されています。

仕事などの疲れをねぎらうときに使う語。仕事を終えて帰る人に対する挨拶(アイサツ)の言葉としても用いる。

岩波書店の広辞苑第6版だとこうです。

相手の労をねぎらう意の挨拶語。

広辞苑の方があっさりしていますが言っていることは同じです。古語や言葉の来歴に重きを置く広辞苑からしたら、こんな言葉は一言で済ませてよろしい、ということなんでしょうか。いやこれは邪推です。

一方、「ごくろうさま」はどうか。まず大辞林。「ごくろう」と「ごくろうさま」の両方が立項されています。

ご-くろう 【御苦労】(1)苦労を丁寧にいう語。「いつまでも―が絶えませんね」 (2)相手の骨折りをねぎらっていう語。目上の人には使わないのが普通。「―,―。もう君は帰ってよろしい」(3)人の努力や骨折りをひやかしたり,やや皮肉をこめていう語。「雨の中をジョギングとは―なことだ」

ごくろう-さま 【御苦労様】 「御苦労{(2)(3)}」をさらに丁寧に,あるいは皮肉をこめていう語。「この暑いのに―なことだ」

ねぎらうという意味では「お疲れ様」と同じです。「目上の人には使わないのが普通」というのが余計な一言なのか、どうか。

ついで広辞苑。

ご‐くろう【御苦労】他人の苦労を敬っていう語。また、他人の骨折りをねぎらっていう語。他人の無駄な骨折りをあざけってもいう。浄瑠璃、曾根崎心中「さてさていかい―」。「この雨に出かけるとは―なことだ」

ごくろう‐さま【御苦労様】「ごくろう」を丁寧にいう語。「遠いところを―です」

第一に「他人の苦労を敬っていう」が来ているのが興味深い。これが最も本来の意味だということなのでしょうか。かつて、ある大臣が天皇陛下に公の場で「ご苦労様でございました」のように言ったことがあるそうですが、「苦労を敬う」意味なら違和感ありません。

ここで分かるのは、「お疲れ様」にしろ「ご苦労様」にしろ、話しかける相手の疲れや骨折りや苦労といった、具体的な行為や状態が存在しているはずだということです。疲れることが何もないような状況で「お疲れ様」と言うのはおかしい。

何に対して、の「お疲れ様」なのか

これは私の提案です。「お疲れ様」と言いたくなったら、「何に対しての」お疲れ様なのかをはっきり言葉にして言うようにしてはどうでしょうか。

車の運転をした家族に「長時間の運転お疲れ様でした」。遠くから来た友人に「長旅お疲れ様でした」。もちろん、一緒に働いた同僚に「今日も一日仕事お疲れ様でした」というのも。

相手が何か疲れるようなことをしたという認識だからこその「お疲れ様」なのでしょう。では、相手は何をして疲れたか、それを言葉に出すようにしましょう。もし該当するものが何も思いつかないのなら、それは「お疲れ様」と言うべき場面ではないのかもしれません。

単純に「お疲れ様禁止!」というよりは、「なぜそこで『お疲れ様』なの?」と内省する方が実りがありそうです。

参考

1年くらい前に同じ話題を当ブログで扱っていました。すっかり忘れていて、いま見返したらオオこんなこと書いてたのかと驚きました。幸いにも上の内容とは重複しないので、参考になる本の紹介も記しているこちらの記事もご覧ください。

台湾語を使った結婚会見

リオ五輪でも活躍した卓球の福原愛選手の結婚会見についての記事が目を引きました。

台湾の江宏傑選手と結婚したことから日本だけなく台湾でも会見が行われました。そこで福原選手の話した言葉を取り上げたものです。

福原選手は以前から中国で卓球のトレーニングをしてきたので中国語(標準語、いわゆる北京語)に堪能だとのことです。台湾でも大陸から来た政権のもとで標準語たる北京語が普及していますが、一方、現地の言葉として台湾語というのがある。これは台湾の対岸に位置する福建省で話される閩南語が元になっています。北京語とは大きく異なるものだそうです。

福原選手は台湾の会見では台湾語で挨拶して現地の人々から好評を得たそうです。

台湾の言語事情についての書籍

台湾語の事情については、以前、本の紹介の形で当ブログの記事に書いたことがあります。

ここで紹介した本、『初めて台湾語をパソコンに喋らせた男—母語を蘇らせる物語』は、思ったより複雑な台湾の言語事情を含め大変興味深く面白かったので、気になる方は是非読んでみてください。

第3水準漢字の必要性

冒頭のニュース記事では台湾語のルーツについて「ビン南語」と記されていました。「閩南語」の「閩」がJIS X 0208の第1・第2水準にない漢字なのでこういう表記になったのでしょう。この字はJIS X 0213の第3水準、面区点1-93-49にあります。JIS X 0213の第3・第4水準漢字が使える環境なら、問題なく漢字で入力できます。

SKKの第3第4水準辞書を使うと「びんなん」という読みから「閩南」に変換できます。Macの辞書にも入っています。

このようなことからも、JIS X 0208でなくJIS X 0213を用いることの重要性が分かります。SJISとUTF-8の間のコード変換では、iconvで "SHIFT_JIS" の代わりに "SHIFT_JISX0213" を指定すれば、この「閩南」も問題なく変換できます。常にこのやり方を用いることをおすすめします。

前野直彬『漢文入門 』(ちくま学芸文庫)を読みました。

本書は1968年に刊行された本の復刊だそうです。

書店でなんとなく惹かれる雰囲気があって手に取ってみたのですが、まず「まえがき」にすっかり引き込まれました。

くりかえして言うが、「漢文」を宣伝するためでもなく、「漢文」の学力を増進させるためでもなく、ただ「漢文」とはどのようなものかということを明らかにするだけの目的で、私はこの本を書く。

漢文とはどのようなものだったでしょうか。漢文の具体例として学校の教科書に載っているようなものを思い浮かべることは簡単ですが、きちんと定義しようとするとそう単純ではありません。

私自身は今のところ漢文を読む必要性はあまりないのですが、漢字、特に日本語におけるそれには興味があります。漢字についての理解を深めるのに漢文の知識が役に立つことは改めて説明する必要はないでしょう。

漢字に興味があって、上のまえがきの一節に何か感じるところがある人は、きっと本書を読んで損はないと思います。あまり厚くないし、前提条件として専門的な知識も必要ありません。

最初にお断りしておきたいのは、漢字と平仮名の使い分けには「これこそが正しい」という絶対的な決まりがあるわけでなく、要するに読んで意味が通じればいいものであるということです。

では「読んで意味が通じる」かはどう判断するかというと、常用漢字表に載っている、あるいは市販の国語辞典を引けば分かる、というあたりが指針になるでしょう。

その上で、どのように漢字と平仮名を使い分ければいいか、私の考え・方針をこの記事に記してみます。具体的な方針に入る前に、日本語表記に漢字を使うことの利点と欠点を考えます。

漢字仮名交じり文の利点

日本語は平仮名だけあれば書けるのですが、ではなぜ面倒くさい漢字を使うのか。いくつか利点があります。

  • 分かち書きをしなくて良い
  • 同音異義語の書き分け (「公園・講演・後援」、「雨・飴」など)
  • 高級語彙の理解の手助け (「かしじょうみゃくりゅう」が何だか分からなくても「下肢静脈瘤」という字を見れば見当がつく)
  • 文字数が少なくて済む

漢字があることによって読みやすい・分かりやすいということが重要です。そうでなかったら平仮名だけでいいんですからね。

漢字の日本語表記における難点

一方、漢字による難点・欠点もあります。ここでは日本語表記の場合のことを言っているので、漢字であっても中国語など外国語の場合には当てはまらないものもあります。

  • 文字数が多くて学習が大変
  • 形が複雑で学習が大変
  • 1文字の読みが複数あって学習が大変
  • 読みの定まらないことがある (「止める」(とめる・やめる)、「歪み」(ひずみ・ゆがみ)、「酷い」(むごい・ひどい)など)
  • 同じ語の書き方にバリエーションが多い (例えば「バラ・ばら・薔薇」。ちなみに「薔薇」は本来は漢語で「しょうび(そうび)」)

したがって、利点を活かしつつ、欠点を抑えるような運用方法が望ましいといえます。

私の方針

漢語はなるべく漢字にする

ここで漢語とは「漢字からできた言葉」ぐらいの意味でいっています。漢字を音読みにする単語と言ってもいいでしょう。「読書」「登山」などです。こういうのはなるべく漢字で書きます。ただし、元の漢字の意味があまり意識されないものは平仮名で書くこともあります。(副詞の「だいたい」「ふだん」「いったん」など)

漢語には同音異義語が多く、漢字で書かないとどれのことか分からないことがしばしばあります、例えば、上記の「こうえん」や、ほかにも「せいき」→「世紀・正規・生気・精気」など、いくらでもあります。また、語の成り立ちとしてこれらは、元々音声言語として存在していた大和言葉とは異なり、漢字によって作られたものであるわけですから、漢字で表記することが言葉の理解のために適当であると考えられるでしょう。

形態的なまとまりを意識する

漢字が連続しているとひとまとまりの語として認識しやすいことを利用します。漢字だけで書ける単語の中に平仮名を交ぜる「交ぜ書き」はなるべく用いません。

したがって、「子ども」「友だち」ではなく「子供」「友達」とします。なお、これらの語の「ども」「だち(たち)」は元々は複数を意味しますが、現在では「こども」「ともだち」でそれぞれ単一の語として扱われ、複数としての意味が薄れています。「男ども」「女ども」のような例を考えると、「子ども」のように平仮名で書くと、却って複数としての意味が強調されてしまうように私には見えます。こうしたことからも漢字だけで書く方が適当と考えます。

また、漢字の語が連続すると区切りが分かりにくくなるので、紛らわしい場合には連続した語のどちらかを仮名に開くことを検討します。これが起こりやすいのは文頭の副詞の場合です。「今行ってきた」とあると「今行」という語のように見えてしまい、いやそんな語はないぞと、余計な判断が増えてしまいます。「いま行ってきた」ならすんなり読めます。この場合は「今」の後に読点を打つという解決方法もありますが、意味の修飾関係や読んだときのリズムを損ねないよう注意が必要です。

同様に平仮名ばかりが連続すると語の切れ目が分かりにくくなるので、やはり避けるようにします。

大和言葉に対応する漢字が複数あって使い分けが面倒な場合は平仮名に開く

面倒なら開く、というのはいい加減に聞こえるかもしれませんが、大和言葉の場合には多分かなり本質的に適切な方針だと考えています。

例えば大和言葉「はかる」に対しての漢字表記は「計る」「測る」「量る」と複数あるわけですが、どれが最も適当かはなかなか難しいことがあります。辞書を調べて「この場合はこれだ」と追求してもいいのですが、判断が難しければ「はかる」と平仮名でも構わない、ということです。そのとき言いたかったのは大和言葉の「はかる」であって、(古代中国の言語体系に基づいた)漢字ではなかったのでしょう。

いちいち断っているように、これは大和言葉の場合、いいかえれば訓読みの場合ですので誤解なきよう。

読みの曖昧な漢字はなるべく使わない

上にあげた「止める」「歪み」の例のように、どちらに読めばいいか分からない場合は漢字を使わず平仮名にします。文脈を考えれば判断できることもありますが、なるべく立ち止まらずにすんなり読めるようにします。

ただし別の要因とのトレードオフも考慮します。平仮名が連続して読みにくくなる場合に、どちらを優先するかといった問題です。状況によっては振り仮名を使うのも手です。

例えば私は「平仮名」「片仮名」のように、これらの語を漢字で表記します。これは上述の形態的なまとまりを考慮してのことです。しかし単に「仮名」とすると、「かな」なのかそれとも別の単語の「かめい」なのか、分かりづらいことがあります。なので、単独で「仮名」とはなるべく使わず、「平仮名」「片仮名」にするとか「仮名文字」のようにするといった工夫をします。技術的に可能なら振り仮名を使って「仮名(かな)」とするのもいいでしょう。表記上の不統一をいとわなければ「カナ」のようにする手もあります。

あまり難しい漢字や特殊な読みは使わない

老若男女、また外国語として日本語を学んでいる外国人も読むことを考え、あまり難しい漢字や特殊な読みは用いません。常用漢字表は良い目安となるでしょう。

もっとも、特定分野の専門用語に難しい字が出てくるのは仕方ないところがあります。そういうのは無理に平仮名にすると却って分かりづらかったり読みづらかったりすることがあるので、読み仮名を振ったり初出の際に説明したりします。特に複数の熟語で使われる漢字は、仮名に開かずにむしろ積極的に漢字を使った方が良いでしょう。

一方、特殊な読みを指定したり、固有名詞だからといって無闇に旧字体や異体字を振りかざしたりするのは控えた方がいいでしょう。字を変にいじって悦に入るのは十代で卒業しておくべきです。

他人の用字を間違いと決めつけない

これは自分が書くこととは違うのですが、他人が自分にとってあまり見慣れない用字をしているときに無闇に間違いと決めつけるのは良くないですね。

例えばあるウェブサイトで「〜して下さい」のような「下さい」を漢字で書いたら間違いだみたいなことを書いていたのを見た覚えがありますが、全然間違いじゃない、きちんとした日本語表記です。大辞林にだって例文として載っています。こういう補助動詞を平仮名で書くのを選好する考え方があるのは分かりますが、あくまでも趣味の問題でしかない。

他人の用字が間違いではないかと疑問に思ったら辞書を引いてみるのが良いでしょう。知らなかったことがきっと載っているはずです。

飯間浩明『辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術』(PHP新書)を読みました。著者は三省堂の国語辞典の編纂に携わっている方です。

言葉の話というと「この言い方は正しい、正しくない」という議論を思い浮かべる人がいるかもしれませんが、本書はむしろそういう「こう言ったら間違い」みたいな短絡的な話には距離を置いています。

また逆に「最近はみんなこう言っているからこれでいいんだ」みたいな(私に言わせれば)乱暴な話とも少し違います。

私の見方では、本書の特徴は、言葉の使い方が状況に照らして理にかなっているかどうかを吟味していることだと思います。もっとも、あまりかしこまったものではなく、全体的に穏やかなトーンが印象的で好ましく感じられます。

連載をまとめたものなので言葉についての様々なテーマを扱っているのですが、中でも『「普通のことば」が味わい深い』というくだりはなかなか真似できない、すぐれた観察力によるものだと思いました。興味のある方は是非読んでみてください。

文字の形についても少し触れられています。手書きと印刷の形の差に言及して、活字の形は必ずしも手書きの形と同じでないこと、手書きの場合に活字の形を手本にするのは適当でないことに触れられています。財前謙『新常用漢字196 ホントの書きかた』(芸術新聞社)を紹介してもいます。この本は私も読んで面白いと思ったので、文字の形に興味のある方はこちらも読んでみてください。

漢字と仮名の使い分けについて書かれたところもあります。これは正解があるわけでなく、人によってそれぞれ異なった考え方のあるテーマです。そのうち、私自身の方針についても書いてみたいと思います。

ここ何年か、若い人からの仕事のメールが「お疲れ様です」という書き出しで始まるものが目立つので不思議に思っていました。そういえば、朝一番であっても「おはようございます」でなく「お疲れ様です」と声をかけてくる人もいます。最近ようやく、この現象がなぜ起こっているのか分かってきました。

どうやら学生同士の間で「お疲れ様」という挨拶が流行っているようです。Twitterを見ていたら、大学の先生をしている人が、学生からのメールが「お疲れ様です」で始まっているので、「疲れるのはこれからだよ」と愚痴をこぼしているというのを見かけました。

飯間浩明「辞書編纂者の、日本語を使いこなす技術」(PHP新書)に、著者が大学で講義したときのエピソードが記されていました。講義が終わって学生たちが教室から出て行くときに「お疲れ様でした」と言われたというのです。こういうときには「お疲れ様」というものではないという説明をしたということです。

この本では、学生がバイト先で覚えてきた言葉を学生同士の挨拶に使うようになったのではないかと推測しています。そういう学生が卒業して会社に入ってくるようになったので、冒頭のように私も、まだ何もしていないうちから「お疲れ様です」と言われるようになったのでしょう。

「お疲れ様」というのは「ご苦労様」と同じで、相手の労をねぎらう言葉ですから、使うべき場面とそうでない場面とがあります。(なお、「ご苦労様」は目上の人に使ってはいけないが「お疲れ様」はそうでないとマナー本に書かれていることがありますが、それには根拠がないということが本書には書かれています。この記事の末尾の引用ツイートにもあります)

例えば一日の終わりに、一緒に働いた同僚から「お疲れ様でした」と言われるのはいいでしょう。一方、朝まだ何もしていないうちから「お疲れ様」と言われるのはかなり変だと思います。

メールでも同じことで、相手をねぎらうべき状況であれば「お疲れ様です」と書くのは結構です。しかし唐突に「お疲れ様です」と書いてよこされると「えっ?」と思います。

仲間内の挨拶なら別に何でもいいのかもしれませんし、そもそも挨拶は言葉の意味なんてかまっていないともいえます。もしかしたら将来には、「こんにちは」(意味は「今日は」)や「さようなら」(同じく「それでは」)のように、「お疲れ様」も本来の意味とは無関係に挨拶の言葉として通用するようになるのかもしれません。ただ今の時点では、そのようには見なされません。

やみくもに「お疲れ様です」というのはやめて、時間や状況に応じて「おはようございます」「こんにちは」など普通の挨拶をするようにするのが良いでしょう。状況にふさわしい言葉かどうか、ということが一番肝心です。

状況にふさわしい言葉かどうかということの参考として、「お疲れ様」を目上の人に言うことの是非について、この著者がTwitterにアップロードしたツイートを紹介しておきます。手書き画像ツイートで140文字の壁を越えているので少々長いですが、状況に合う使い方かどうかを例を示しながら説明されています。

プログラマのための文字コード技術入門』を執筆中、XMLについての記述で悩んだことがあります。といってもXMLの技術仕様の中身とは関係のない部分です。

それは、"XML 1.0 Fifth Edition" のeditionにあたる日本語をどうするかです。

これは通常、「版」という言葉があてられます。有名なC言語の解説書の『プログラミング言語C 第2版 』の「第2版」も原題は "Second Edition" です。

ところが今回の場合は "1.0" というバージョン番号が一緒に出てきています。versionも訳すれば「版」ですから、「1.0版の第5版」になってしまうのはいかにもうまくない。

出版社の人にも聞いてみたのですがいい答えがなかったので、「版」はversionに対応する語としておき、editionはそのまま英語にしてしまいました。

もっとも、いま考えると、逆にeditionに「版」を割り当てて、versionにあたる日本語は出さずに済ませるか、もし必要なら片仮名で「バージョン」にしてしまった方が収まりが良かった気がします。XMLの仕様書の日本語訳はそうしているようです。

ある所で「エンマーク」なる言葉が聞こえてきて耳が反応しました。通貨の円記号「¥」のことでしょう。

あまり細かいことを言うと嫌がられるしどちらでもいいようなものですが、これは「円記号」というのが文字コード業界(?)的にはオーセンティックな言い方で、ASCII/JIS X 0201の0x5Cについての問題は「円記号問題」というのが確立された五文字熟語です。JISの通用名称は「円記号」ですし、ISO/JISの文字名も "YEN SIGN" となっていて、markとはいっていません。

形式的にはそういうことになるのですが、とはいえ、signとmarkがどう違うのか、私は実はあまりよく分かっていません。もちろん一般的な語としては違いますが、このような記号を指す場合には、signもmarkも同じようなものを指して使われているように見えます。

例えば、感嘆符や疑問符は exclamation mark や question mark、引用符は quotation mark であるわけです。一方、通貨のドルやポンドや円は dollar sign, pond sign, yen signといっていて、 percent signやplus sign, minus sign, equals sign, less-than signというのも sign の仲間です。

ここに挙げた例だけだと、句読点に類するものはmarkで通貨記号や数学記号はsignなのかなという気はしますが、UnicodeData.txtをちょっとググって、じゃなくてグレっ(grep)てみると、自分の知らない用字系の記号についてmarkもsignも多数あって判断がつかないので、そう単純にいっていいのかどうかよくわかりません。ちなみに片仮名の長音符号「ー」や濁点はmarkで、著作権記号©はsignだそうです。

英語学習者用の英英辞典をひいてみると、signには「a mark or shape that has a particular meaning」とあり、一方markには「a shape or sign that is written or printed」とありました(Longman 4th edition)。signは一種のmarkでありかつ、markは一種のsignであると。循環してしまっていますね...。

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