2013年1月アーカイブ

東京国立博物館で、特別展「書聖 王羲之」が今週から開催されています。3月3日までです。当ブログをお読みの方には文字に興味のある方も多いでしょうから、既にこの展覧会に注目している人もいることでしょう。

この特別展のウェブページを見ると、いくつもJIS第3水準漢字が(あるいは、それを外字扱いした箇所が)出てきます。出現箇所の言葉とあわせて、面区点番号を記してみましょう。

  • 「郗鑒」(ちかん)の「郗」、1-92-69。
  • 「鍾繇」(しょうよう)の「繇」、1-90-20。
  • 「褚模蘭亭序」の「褚」、1-91-82。
  • 「王澍」(おうじゅ)の「澍」、1-87-17。
  • 「改琦」(かいき)の「琦」、1-88-06。
  • 「趙孟頫」(ちょうもうふ)の「頫」、1-93-89。

そんなに長い文章でもないのですが、これだけ出てきます。

上に出てきたうち、郗鑒、鍾繇、趙孟頫については、第3第4水準辞書に収録されていますから、この辞書をインストールしていれば、読みからすぐに入力できます。文化的な活動を営んでいる方はぜひお試しください。

どういうわけか、書道関係の人名にはJIS X 0208になくJIS X 0213にある漢字がよくあるようです。ここには出てきませんか、米芾(べいふつ)という有名な書家の名の「芾」も第3水準ですし、後漢代の蔡邕(さいよう)も書家として知られており、その名の「邕」は第3水準です。

こうした文字を符号化するには、UTF-8やEUC-JIS-2004、Shift_JIS-2004といった第3第4水準文字コードを使う必要があります。

少し前に、あるソフトウェア技術者とのやりとりの中に「見切れる」という言葉が出てきて、なんだろうな、と思ったことがありました。

このときは、ソフトウェアの出力するメッセージが途中で切れてしまって全部読めないという意味だということが文脈から明らかだったので、別段問いただしたりはしませんでした。へえ、こういう言い方をすることもあるのかな、と思った程度です。

その後、この年末年始ぐらいだったでしょうか、電車の中吊り広告という思わぬところで同じ言葉にまたでくわして、なんなんだこれは、と不審に思うようになりました。その広告の中では、東京へのオリンピック誘致についてのある芸能人のコメントで、「私は見切れます」のような使い方でした。細かい文言は忘れましたが、主語と述語はこうだったと思います。

はて、これはどういうことなのか。この2つの例では、「見切れる」なる言葉が同じ意味で使われているとは思えない。というか、2つめの使用例の意味がさっぱり分からない。なぜ、分からないような言葉を広告に使うのか。分からない方が人目を引くという考えなのか。

「みきれる」なる言葉は大辞林にも広辞苑にも載っていません。「見切る」という言葉はあって、可能の形では「みきれる」になりますが意味的に合わなそうです。

ウェブ検索でいろいろなページに書いてあることからすると、こういうことらしい。

「見切れる」というのは元々は演劇やテレビなどの業界用語で、裏方などの見えてはいけないものが映ってしまう、あるいは見えてしまうことを指したようです。「スタッフが見切れてる」といえば、本来見えてはいけないスタッフの姿が見えてしまっているということ。

ところが近年、そうした業界関係者以外の人によって、「本来映るべきものが画面の外にはみ出て映っていない」という、逆の意味に使われることが増えたそうです。「記念写真を撮ったら右端の人が見切れてしまった」のように。

つまり、

  • 元々は業界用語で、一般の人が使うような言葉ではなかった
  • しかも、一般の人が逆の意味で使うようになった

という、大変困ったことになった言葉であるわけです。あまり近寄らない方が良さそうです。

冒頭の例は、「逆の意味」の使用で、2つめの例がおそらく業界用語として本来の意味で使われている例なのでしょう。が、正しい用法であれ、業界用語という性質上、電車の中吊り広告という不特定多数の見る媒体に使うのが適当な言葉とは思われません。

大人の三国志

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三国志は日本でも大変人気の高いストーリーで、小説、漫画、ゲームなど様々な媒体で親しまれています。私も中学生の頃に吉川英治による小説を夢中になって読みました。同じような経験をした人も多いでしょう。

かつて三国志に熱中したことのある方には、渡邉義浩『三国志―演義から正史、そして史実へ 』(中公新書)がおすすめです。今までと違った角度で三国志の世界を見ることができるでしょう。

本書は、小説としての三国志のもとである『三国志演義』と、西晋の陳寿によって編纂された歴史書(いわゆる正史)の『三国志』とから歴史の実態に迫ろうとするものです。

注意が必要なのは、「正史」の記述が絶対ではないということです。『演義』が多くの虚構を含んでいるのは当然としても、陳寿の『三国志』自体もまた、書き手の意図や思惑のもとに編まれたものであって、別段中立公正なものとは限らないのです。「正史」とは「正しい歴史」のことではなく、国家の正統を示すための歴史なのだと本書の著者はいいます。『三国志』ならば、作者の陳寿が仕えた晋の正統性を示すことが目的となっているわけです。なので、まるっきりの虚構をでっちあげることはしないまでも、その歴史書の目的のために、記す材料を取捨選択したり、人物に対する評価が偏向していたりということはあり得るということです。

本書は後漢末の時代背景や、陳寿が『三国志』を記した西晋の時代背景、また『演義』が成立するまでの思想的な背景なども説明しながら、登場人物がなぜこのように描かれているかといったことを解き明かしていきます。

本書の説明によって、中国における歴史文化の特徴も垣間見えてきます。それは、歴史とは単に事実関係を記すことが目的なのではなく、誰が正しく誰が間違っているか、あるいはどの国が正しいか、という、価値判断を下すことが重要なのだという、独特な態度です。歴史に対してそういう態度をとっていることを知ると、現代の中国の政治家のいう「正しい歴史」なる言葉も単なる過去の事実という通常の意味ではとらえられないと気付かされます。

また、本書の本題とはあまり関係しないことながら、興味深く思えたことがあります。諸葛亮による北伐が、早くも東晋代には、外国に占領された中原を回復する希望と重ね合わせて見ることが始まっていたということです。また、唐の安禄山の乱によって首都を占領されたときにも同じ見方がなされているとのこと。後代における、女直の金と戦った南宋の岳飛を英雄視することや、はたまた今日の中華人民共和国政権が主張する所謂「偉大な中華民族の再興」と通じる、漢民族ナショナリズムの一つの型を形成しているのだろうと思えます。

本書の第1章の題は「演義と正史 それぞれの限界」、第2章は「二袁の真実 「漢」の重みと簒奪」となっています。第1章は前提として分かりますが、その次の章、いわば本題の最初のところで、袁紹と袁術という、あまり魅力的でない人物が出てくるのが意外な感じがします(後の章では、曹操や関羽、諸葛亮といった主役級の人物が出てきます)。

しかし、この第2章は当時の思想的な時代背景を理解する上で大変重要な役割を果たしています。なぜ三国志の物語において袁術は雑な扱いを受け、徹底的に貶められているのか。その理由は「「漢」の重み」を無視した故であることが明らかにされます。そして「「漢」の重み」は以降、本書を貫くテーマとなり、最終章で振り返られます。見事な展開でした。

あるプログラムが、入力としてUTF-8で符号化されたCSVファイルを受け付けるようになっていたのですが、UTF-8でなくシフトJISでいいようにできないかという意見を聞きました。

というのは、その人はCSVファイルをExcelで開いて表示や編集をしたいのだけども、WindowsのエクスプローラからダブルクリックしてExcelで開くと、UTF-8だと文字化けするという理由なのでした。

うーむ。

そういう操作をしたいという理由は分かるし、シフトJIS (など)を入力として受け付けられるようにすることは別に技術的に難しくはないですが、Excelの問題のためにわざわざ手間をかけるというのはどんなものか。

Excelでも、ちょっと細工するとUTF-8のCSVを開けるようです(「ExcelでUTF-8エンコーディングされたCSVファイルを開く方法」)。

  • CSVファイルの拡張子を .csv でなく .txt にしてウィザードから文字コードを指定するようにする
  • BOMつきのUTF-8にする

いずれにしてもちょっと手間です。

最も簡単なのは、LibreOffice Calcをインストールして、そちらから開くことかもしれません。これだと、ファイル名やファイルの中身をいじらなくとも、ファイルの文字コードや区切り記号を選択して、CSVファイル等を開くことができます。前回実行した時の選択を覚えているのか、2回目からは前回選択した文字コードなどが予め設定されるようです。

LibreOffice CalcはCSVを開くときにセルの幅をよきにはからってくれるようで、この点でもExcelより使いやすいかもしれません。

とはいえ、自分で使うならともかく、人に対してはなかなかそう言いづらいことがあるので、すっきりしない状況がしばらく続きそうです。

札幌に行ってきました。今回の一枚はこちら。

Downtown Sapporo in winter (getting dark) / 冬の札幌中心部

JR札幌駅にくっついているJRタワー展望台からの夜景です。

南方向を見ている図です。画面左上の方にテレビ塔が見えます。そこから右(つまり西)に大通公園がのびています。右奥の方に見えるのはすすきのの観覧車。右手側の、手前から奥へと延びている通りが札幌駅前通です。

札幌の市街地は碁盤の目状に整備されていて、夜景でもそのパターンが見えるのが、札幌の夜景のひとつの見所でないかと思います。

先日見たニュース記事に、国内の夜景のランキングがありました(「【トリップアドバイザー】「日本の夜景スポット トップ20」を発表」)。1位は函館山からの函館の夜景なのですが、4位に藻岩山からの札幌の夜景、6位にこのJRタワーからの札幌の夜景と、札幌が2箇所ランクインしています。

札幌の夜景というのは以前はあまり有名でなかったはずなのですが、じわじわと浸透しつつあるように感じます。

札幌の夜景の代表格といえる夜の藻岩山には、札幌に住んでいた頃に行ったことがあります。宝石箱をひっくり返したように一面に散らばる光は、函館山の夜景とはまた違ったおもむきがあります。札幌に土地勘のある人なら、「このひときわ明るいのはススキノ、こっちの暗い穴は北大」といったように、どこがどの辺か見当をつけられるでしょう。

写真うつりという点ではちょっとどうか分かりませんが、旭山記念公園からの夜景も、近くに迫る感じがあって良いでしょう。

札幌を訪れた際は、夜景観光も一興かと思います。ただし、冬はとても冷えるので気をつけて! その点、JRタワーは屋内なので有利です。

2年半ほど前に、トラックボールについて書きました。マウスを使っていたら手のしびれを感じるようになったのでトラックボールにしたという話です。

今も同じ機械をまだ使っています。おおむね良い製品だと思うのですが、不満がないわけではありません。

第一に、独立したスクロールホイールがないこと。買う前から分かっていたことではあるのですが、やはり、あった方がいいなあ、と思います。ウェブブラウザの場合は小さなボタンを押しながらボールを回すとスクロールするのですが、ソフトによるようで、例えばExcelでは同じ操作が効かなかったりします。

第二に、ゴミがつきやすいこと。この製品が特にそうなのか、一般的にそうなのかはよく分かりませんが、ゴミが割とたまりやすいと感じます。ボールを支えて滑る点が3つあるのですが、使っているうちにそこにゴミがついてきます。ボール式のマウスにゴミがつくのと同じです。使い心地に影響するので、時々とってやっています。

第三に、手の負担という面から見て、マウスよりいいかもしれないけれども、なおベストポジションではないのではという感じがします。手を上にかぶせるような格好で使うのですが、私の好みとしては、もう少し手が立った位置の方がいい。

どういうことかというと、普通、手を自然にまっすぐ前に出すと、てのひらが横 (右手ならば左) を向きます。自転車のドロップハンドルというのはこの自然な状態で握れるようになっている。人体の構造にてらして最も理にかなったポジションなのでしょう。PCの入力装置もこうあってほしい。てのひらを下に向けるのは腕をねじったような状態になり、負担がかかるわけです。

電機店を見ていたら、そういう自然な角度で握れるマウスというのが販売されていました。ちょっと魅力的に感じましたが、私はトラックボールを使いたい。ぜひトラックボールに、その見解を活かしてほしいと思います。

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