2012年7月アーカイブ

たとえばこういう例があります。

イスラエルの保育所でのこと。親が子供を迎えにくるのに、時間に遅れることが時々ある。これを減らすために、遅れたら罰金をとるようにしよう、と、保育所の関係者は考え、実行に移してみた。すると何が起こったか。なんと、罰金をとる前よりも、親が遅れることが却って増えてしまったというのです。

どうしてそうなったのか。罰金制度の導入される前は、時間に遅れることは後ろめたい道徳的な問題でした。しかし、罰金制度によって、時間に遅れてくることは、保育士に対して申し訳なく思う必要はなく「お金を払えば済む問題」になってしまったのです。決まったお金を払えば遅れても構わない、むしろ好都合くらいに思ったかもしれません。

これをマイケル・サンデルの『それをお金で買いますか』は、「お金を払わせることにしたせいで、規範が変わってしまったのだ」と説明しています。道徳的な問題がただの有料サービスになってしまったわけです。

この本は大変おもしろく読めました(ちなみにSony Readerで読みました)。ブームになった著者の本なので、最初はちょっと割り引いて見ていました。が、その必要は全くありませんでした。読者の興味を面白い例でひきつけながら、市場万能の風潮の問題を指摘します。

ベンチャー企業の経営者が豪語していたように、お金で買えないものはないのでしょうか? その答えを考えるには、買えるかどうかというよりも、お金で買えるようにすべきでないもの、に注目すべきなのかもしれません。

著者は、世の中の議論を整理して、お金で何でも買えるべきなのかどうかについて、2つの論点を提示しています。ひとつは、公正の観点、もうひとつは、腐敗の観点です。

公正の観点というのは、要するに、世の中には金持ちも貧乏人もいて、それは別に本人の責任とは限らないのだから、金を払う人に何でも優遇するようにしたり、あるいはお金でつって腎臓を売らせたりするのは不公正だということです。金が万能の世界では、金持ちが何でも有利になる一方で貧乏人は金のために意に染まないことをさせられることになるでしょう。

一方、こちらがより本質的と思えるのですが、腐敗の観点というのは、金の問題にすることによって価値や規範が損なわれるということです。難関大学の入学許可が金で買えるとなれば、入学の名誉は損なわれます。ノーベル賞が金で買えると分かったら権威は消滅します。また、臓器を売買することは人間を物質化するものであり、侮辱するものだという考えです。

本書には、世界 (主にアメリカ) の様々な「お金の問題にした」例がふんだんに掲載されています。パトカーに企業の広告を入れるアイディアという滑稽きわまるものまであります。著者の議論に納得しない人であっても、そうした実例は面白く読めるものと思います。

観測と観望

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まだ記憶に新しい今年5月の金環日食。このとき、テレビ報道などで、「多くの人が観測を楽しみました」というような言葉遣いをしていました。

一般の人の使う言葉としてはそれで問題ないと思います。ただ、天文を趣味にしているような人は、少し違う言葉を使うことがあります。

そういう人が観測というときは、測定したデータを記録に残すような場合に使います。観測内容にもよりますが、例えば星食 (日食や月食も広くいえばこのカテゴリに入ります) の観測であれば、現象の発生した時刻や、観測地の緯度・経度などを記録に残します。流星群の観測であれば、何時から何時の間に何個流れたか、そのときの雲量は、といったことを記録します。

一方、観測データを残すのが目的でなく、天体を見て楽しむことは、「観望(かんぼう)」と呼ぶことが多いです。天文サークルなどではよく観望会というのを開催することがありますが、これは、星を見て楽しみましょうという趣旨の会です。

なので、単に日食を見ることを楽しむのは観望ということになります。まあ、一般の人の用語としては、特にこうした違いを気にする必要はないと思います。

なぜ今日こんなことを書いたかというと、この前ある人に、8月14日の金星食を観測するのかと聞かれたためです。その人は星の好きな人なので、うーん、観測をするつもりはないけど観望はするかも、といった答えを私はしておきました。天文趣味の人だとこういう会話が成り立つわけです。

正義という言葉は、傾向として、自分の外側に「悪」を設定してそれをやっつけるという印象があります。言語学的にどうだかは知りませんし、辞書の定義とも違うと思います。単に、いち日本語ネイティブ話者としての私の主観的印象に過ぎません。ただ、英語辞典を引くと、"justice" の意味として「報い、処罰」があったり、大文字から始めて Justice とすると「正義の女神」という意味であるのだけどこの女神は剣を持っているというのだから、そんなに的外れでもない気がします。

一方、「よいこと」というのは、電車でおばあさんに席を譲ったり、恵まれない人に寄付をしたりと、穏当であることが多いように思います。勿論、よいことと称して悪いことをする人もいるわけですが。

個人の心がけとしては、他罰的な「正義」を追求するよりも、内省的に「よいこと」をするようにした方が、間違う可能性が少ないのではと思います。

正義というのは、ときとして独善的に使われることがあります。自分が正義の剣をもって人に斬り付けようとしていると感じたときに、正義感はそのままにして剣を振り下ろすのをやめ、攻撃的でない「よいこと」をかわりに実行するなら、より好ましい結果が得られるのではないでしょうか。イメージしやすい例がほしければ、誰かがネットで他人に攻撃的な言葉をぶつけようとしているところを想像してみてください。あるいは、誰かの些細な過ちをとがめて「炎上」させようとしているところを。彼にはきっと、彼なりの正義があるのです。

リンチという言葉があります。英語でlynchといって、アメリカに実在した判事の名前からきているのですが、法によらない私刑のことです。法が裁かないなら自分の手で裁くというわけですから、客観的に見た妥当性がどうであれ、一種の正義感から発生するわけです。

もっとも、中には、正義を振りかざすなんて間違いだといって、正義が悪いものであるようにいう人もいるようですが、それはまた極論であるように思えます。警察官や弁護士など、正義を追求すべき立場の人もいるでしょう。一般の人であっても犯罪を目撃したときなど正義を執行すべきこともあるでしょう。しかしここでは、あくまで、普通の人の日常の心がけとしてどうあった方が好ましいかということのヒントをいっているに過ぎません。

以前、「やなせたかしの正義」という記事を書きました。その内容をここでの話の文脈においていうならば、大東亜戦争を肯定するにせよ否定するにせよ、それはどちらかの側に正義を設定して他方をやっつけるという、「正義」の思考様式であることにはかわりありません。そのような正義が終戦の前後でころっとかわってしまったことに失望したやなせ氏が「腹ぺこの人を救う」というテーマに到達したことは、ここでいう「正義」から「よいこと」へと転換したのだといえるでしょう。

「よいこと」というのは、「正義」に比べると派手ではないし即効性もあまりないかもしれません。でも多分、長期的に効いてくるのは「よいこと」の方ではないかと思います。特に理論的な根拠はありません。私がそう思ってるだけです。

ここに書いたことが役立つと思うなら取り入れてもらえばいいし、役に立たないと思うなら忘れてしまってかまいません。

こういうことはきっと既に言われていることなのだろうけど、いいや、それでも書いてみよう。個人ブログは学術論文でも特許出願でもないのだから。

あるビジネス誌のコラムサイトでしばしば「彼ら彼女ら」という表現を見かけます。特定の書き手によらないので、執筆者が「彼ら」と書いていても編集者の意向で修正しているのかもしれません。この長ったらしい言い方は大いに気になります。

多分、男女平等のつもりでこうしているのでしょうが、本来、日本語の「彼ら」は男女を問いません。広辞苑では「あの人々。あの人たち」として済ませており、特に男性をさすとはいっていません。大辞林には「三人称。「かれ」の複数。あの男の人たち。あの人々」として「男」の意味も記していますが、「明治期までは、男にも女にも用いた。また、時に事物にも用いることがあった」という注記が付けられています。

そもそも、「かれら」から「ら」を抜いた「かれ」という言葉からして、元々は男女の区別はなかったようです。

広辞苑で「彼」をひくと、第一に掲げられている意味として、「あれ。あのもの。古くは人をも人以外のものをもさした。人の場合、男女ともにさした」とあります。2番目の意味として「あの男。その男」が出てきます。広辞苑は言葉の古い意味を1番目に載せるので、元々は男女の区別がなかったことが分かります。

一方、大辞林は現代語の意味を優先して載せるので、「彼」の1番目の意味として「話し手・聞き手以外の男性をさし示す」と、「男性」のこととしています。そのうえで、「明治以降、英語の he などの訳語として生じたもの」という説明を付しています。

つまり、元々日本語の「彼」は男女ともにさしたのですが、明治以降にヨーロッパ語の影響で、「彼」を男性のこととし、女性については「彼女」という言葉を新たに作って用いるようになった、ということになります。

だから、「彼」の複数形である「彼ら」も、元々男女の別はなかったし、辞書によっては現代語の意味としても特に男専用とはしていないわけです。

日本語の「彼」「彼ら」を元々の用法で使っていればそのままで男女平等だったのに、西洋の真似をして男女の区別を設けてしまい、ところがそういう区別が当の西洋で問題視されるようになったためにわざわざ「彼ら彼女ら」なんていう長ったらしくて本来不要な表現を作り出しているというのは、私には滑稽に見えます。

ではどうすればいいか。

男女の区別が問題なら、明治以前に立ち返って、「彼ら」は性別なし、ということを確認すればいいのではないか。これは比較的簡単にできるのではないでしょうか。

もっとも、現代語で「彼」が男性専用になっているので、ちょっと整合性が悪い。

それなら、いっそのこと、「彼」も男女の区別なし、というところまで戻ってみてはどうでしょうか。抵抗はあるでしょうが、新たな言葉を発明するのでなく昔の姿に戻すのだから、そんなに変なことではないのではと思います。

では男女の区別をしたいときにはどうすればいいかというと、「彼女」にならって、「彼男(かのだん)」という言葉を作って、男性だけをさす場合にはこちらを使えば良い。

まとめると次の表のようになります。

単数複数
性別不問彼ら
彼男(かのだん)彼男(かのだん)
彼女彼女ら

大変すっきり論理的になると思うのですがいかがでしょうか。

ちなみに、英語には he or she のような言い方がありますが、長ったらしくなるのを嫌ってか、単数の場合でも they で受けて性別をうやむやにする(?) singular they という用法があるそうです (Asahi Weeklyの記事)。

あるウェブサイトで、文字列が片仮名かどうかを判定する正規表現として /^[ァ-ヶ]+$/ のようにしているのを見て、あれれと思いました。(「ヶ」はそもそも片仮名かという問題はありますが、それはここでは除外)

分かってやっているのならいいですが、これでは長音の「ー」が含まれません。JIS順でもUnicode順でも、「ー」はこの範囲に含まれません。JIS X 0208/0213では、片仮名が5区にあるのに対し「ー」は1区28点にあります。Unicodeでは、「ァ」がU+30A1、「ヶ」がU+30F6なのに対して「ー」はU+30FCですから上記の範囲に含まれません。Unicodeの場合は連続したKatakanaブロックの中にあるので、例えば [ァ-ヾ] (ここで「ヾ」はU+30FE)とすると「ー」も含まれることになります(この場合は中点「・」も含むことになります。それが適当かどうかは用途次第)。

もっというと、Unicodeの場合、濁点・半濁点に結合文字を使うと、上のやり方ではマッチしなくなります。「ザ」を表すのに単一の符号位置U+30B6でなく、「サ」U+30B5と合成用濁点の連続を用いていたというケースです。合成用濁点はU+3099、合成用半濁点はU+309Aと、Hiraganaブロックにあるためです。結合文字なんて使わないと思われるかもしれませんが、どこかからコピペして入力したときに、コピペ元がたまたまNFDで正規化されていたなんていうことはあり得ることです。

さらに、上の正規表現では、JIS X 0213で追加されたアイヌ語表記用の片仮名も外れています。アイヌ語なんて使わないと思われるかもしれませんが、用途としては別段アイヌ語に限定されてはいません。以前書いたように(「JIS X 0213の小書きの仮名」)、韓国語の発音を片仮名で表すのにもある程度使えますし、また例えばイタリア語のCampanellaという名前を「カㇺパネㇽラ」と書くことも考えられなくはありません。この「ㇺ」「ㇽ」などは、UnicodeではU+31F0からU+31FFのKatakana Phonetic Extensionsにあり、コード範囲は基本的な片仮名と連続していません。

どこかのサイトに書いてあったことを鵜呑みにするのでなく、用途や状況に応じて詳しく検討する必要があります。

最近、パンダのニュースが多く報道されていました。生まれたばかりのパンダが病気で死んでしまうという残念な知らせもありました。

今私の住んでいる関東地方でパンダというと、東京都の上野動物園のイメージが強いです。マスコミの報道もそうですね。

しかし、じっくりパンダを見たいなら、和歌山県の南紀白浜アドベンチャーワールドがおすすめです。

アドベンチャーワールドは日本で最も多くのパンダを飼育しています。現在8頭のパンダがおり、これは中国以外では世界で最も多いそうです。地元白浜町は「パンダの町」として観光客を集めています。

アドベンチャーワールドでは、屋外・屋内両方のパンダ展示があります。屋外、芝生の上でムシャムシャと笹を食べているところが見られると思えば、屋内では2010年に生まれた海浜(かいひん)陽浜(ようひん)の双子がそろってミルクを飲むところが見られたりします。

上野動物園ほど混まないので、ゆったり、じっくり見られます。私は去年の秋に上野動物園に行ってみたのですが、パンダどころか、ただ入園するだけで30分待ちだというので、諦めて帰ってしまいました。

東京では、上野動物園のパンダの報道はよくされますが、そんなにパンダが好きなのかというと、その割にはアドベンチャーワールドの知名度は驚くほど低いです。

パンダ報道に関して、辛坊治郎氏の「東京初は日本初?パンダ騒動で感じた地方への無関心」という記事がありました。本当にそのとおりだと思います。

私は今年の4月に、白浜を訪れて、アドベンチャーワールドにも行ってみました。そのときの写真をいくつか。

食事に夢中

食事に夢中なパンダ。

子パンダたち

双子の子パンダ。

子パンダごろん

ブランコの上でゴロン。

歩くパンダ

屋外を歩いているところ。健康のために運動中?

なお、パンダだけでなくほかにいろいろな動物もいます。また、公共の動物園の場合、パンダを借りるための費用ということを考えてみるのも無意味ではないでしょう。

先日楽天が電子書籍端末のkobo Touchを発表して世の耳目を集めています。電車の中にも広告をうつなど、派手に打ち上げたという感じで、注目されたという意味では成功しているのではないでしょうか。

報道をいくつか見て分かったのは、ハード的にもコンテンツの品揃え的にも、Sony Readerと大差ないだろうということです。

【2012年8月2日追記: と書きましたが、コンテンツの品揃えは現時点でSony Readerに大きく劣後しています。下記には、楽天の発表に基づいて開始時点で3万点程度と書きましたが、実際には開始時に1万9千以下(ITmediaの報道)、しかもその後7月中には必ず3万点揃えると公言したにもかかわらず、8月に入った時点でも日本語蔵書数は2万3千点程度(日経の報道)、そのうち青空文庫の無料作品を除くと約1万点、更に漫画作品を除くとその半分程度とのことです。ソニーのReaderStoreは6万を超えている由(前掲ITmedia報道)。両者のストアを人気の著者名で検索して比較してみると、私の主観ではkoboのストアはReaderStoreの5分の1程度でした。ReaderStoreとて十分とはとてもいえませんが、それより大きく劣る状態でサービス開始に踏み切り、発表する数字も殆ど詐称に近く、また周知の通りソフトウェアの不具合やそれについての経営陣の発言も相まって、大きな失望を引き起こしました】

同じ6インチの電子ペーパーを使っていて、タッチパネルを採用し、サイズも重さも大体同じ。Wi-Fiで通信可能。内蔵メモリも両方とも2GB (kobo Touchについて1GBとしている報道もありました)。マイクロSDカードが使用可能なのも同じです。

詳しく記すと、サイズはkobo Touchが114mm×165mm×10mm、Sony Reader PRS-T1が幅110×高さ173.3×奥行X9.6mmと、ほぼ同じです。重さはkobo Touchが185g、Sony Reader PRS-T1が168gと、Sony Readerの方がやや軽い。まあ、大体同じと思って差し支えないでしょう。

日本語コンテンツの点数も開始時点ではReader Storeと同程度 (もしくはより小さい) のようです。

Sony Readerを知らない人が、kobo Touch特有の機能だと誤解しているのはこんなところでしょうか。

  • 軽い! →Sony Readerの方が軽い。
  • PDFも読める、便利そう! →Sony ReaderでもPDFを読めます。
  • これからはEPUBだ! →Sony Readerも日本で発売した当初から対応しています。

コンテンツについては楽天の発表では250万冊といっていますが、ほとんどは日本語以外のもので、それが役に立つ人もいるでしょうが、現在切望されているのは日本語コンテンツです。日本語書籍は開始時点で3万点程度と、Reader Storeと同程度以下の規模のようです。150万冊を目指すという発表もありますが、あくまでも「これから目指したい」という話にすぎません。

結局、kobo Touchが新しいのは7980円という価格設定だと思います。

私から見てSony Readerの方が明らかに優れていると思える点は、

  • XMDFと.bookに対応している: これらのフォーマットを批判する人もいるでしょうが、現時点で日本語コンテンツの資産がそれなりにあるので、全く無視してかかるのは得策でないと思います。DRMフリーのXMDFを購入して読んでいる人もいます。
  • ページめくりボタンが本体の下の方にある: 同じ位置にホームボタンしかないkobo Touchは、ページめくりは画面タッチのみでやる方針なのかもしれません。実際Sony Readerを使っていると、その時々の姿勢や持ち方に応じて、物理ボタンも画面タッチも両方使います。本体の下の方を持っているときは、ちょうど物理ボタンが親指で押せる位置にくるので、こちらを使う方が便利なのです。

報道からではよく分からない点としては、どれくらいオープンなのかということです。

たとえば、楽天以外のストアが使えるのかとか、専用ソフトを使わずにLinuxのPCからUSBでつないで書籍データを出し入れできるのかといったことです。Sony Readerはそのへんは割とよくできています。が、Readerに限らずkoboやkindleのような他機種でも、そういうところまで調べて報道してくれるところはまずないのがなかなか分かり辛いところです。

【追記】少々うがった(?)見方としては、スラッシュドット・ジャパンの書き込みが参考になるかもしれません。Sony Readerについてよく知らない方は「Sony Readerが誤解されがちなこと」も参考になるでしょう。

Sony Readerで電子書籍『ワンチュク国王から教わったこと』(ペマ・ギャルポ著、PHP研究所刊)を読みました。昨年ブータンのワンチュク国王夫妻が来日されたことは記憶に新しいですが、その際に通訳を務めた著者が、来日時のことを綴った本です。

国王の来日の様子はよく報道されていました。国会でのスピーチや震災被災地の訪問をテレビなどで見た人も多いでしょう。大変好印象で迎えられました。

人口70万人ほどのブータンは明らかに小国です。しかし、国王は謙虚ではあっても決して卑屈ではなく、堂々としています。良い国というのは、単に人口が多いとかお金がいっぱいあるとか兵器をいっぱい持っているとかではないのでしょう。

本書では自国の伝統文化を大切にするということが印象に残りました。大切にするというのは、博物館に陳列して鑑賞するのでなく、日常の中に生きていることが重要だということです。この点で私たち日本人は大いに反省の余地があるでしょう。

ワンチュク国王は結婚して初の海外訪問先として日本を選んだり、また柔道を学んだ体験があるなど、日本に対して関心を持たれているそうです。これはおそらく国王ひとりだけのことではなく、アジアでは、日本の明治維新や戦後の経済発展のような経験が、今なお学ぶべき対象と認識されているように思えます。チベットから亡命して日本に来た本書の著者も、今はどうか分かりませんがかつてはそう思って日本で学んだのではないでしょうか。ダライ・ラマ14世も、初めて日本を訪れたときは現代的な技術や制度を持ちながら伝統的な精神が生きていることに期待を感じたということを、自伝に書いていました。そうした人々をがっかりさせないように日本人は気を付ける必要があると思います。

慶応大学での講演のくだりからは、地球規模でものを考えることの必要性が伝わってきました。単に自国が豊かになればいいというのでなく、世界全体がどうなっていくべきかを考える、示す、ということが、これからの時代は求められるのでしょう。

さて私は今回この電子書籍を紀伊國屋書店のサイトから購入しました。この店の良いところは、一度購入した電子書籍をSony ReaderやiPad、PCなど複数の端末で読めるところです。本書は綺麗なカラー写真をいくつも含んでいますが、本文を読むのには軽くて持ちやすく目にやさしい (そのかわり白黒画面の) Sony Readerで読み、写真主体で見たいときにはiPadを使うといった使い分けができます。1台で何でも済めばいいという考えもあるでしょうが、今のところはなかなかそうでないように思いますし、特定の機器に縛られないことは利用者にとって有益です。

1週間前のことですが、日本テレビのバラエティー番組「世界の果てまでイッテQ!」で、ホッケ「𩸽」という字が大きく映されていました。

世界遺産に登録されている北海道・知床半島の自然を紹介する企画で、この付近の海の幸を取り上げる中に、魚のホッケを映し出す際にこの漢字も映っていました。飾りのパターンのような扱いでしたが。

当ブログで何度か取り上げているように、この字はJIS第4水準漢字です。JIS X 0213の面区点番号は2-93-44です。UnicodeではBMPでなく面02のU+29E3Dにあります。なので、UTF-8では4バイトコード、UTF-16ではサロゲートペアへの対応が必要です。

興味のある方は過去の記事「ホッケという魚と漢字」もご覧ください。

第3第4水準辞書を使うと、「ほっけ」から漢字の「𩸽」に変換できます。魚の好きな方もぜひお試しください。

なお、この番組の中で、知床という地名はアイヌ語で地の果てという意味だという説明がされていました。この説は大変広く流布しているように思われるのですが、語源的には「地の先」の方が適切であるそうです。このことは以前紹介した北道邦彦『アイヌ語地名で旅する北海道』(朝日新書)に記されています(参考記事: 「「アイヌ語地名で旅する北海道」の片仮名」)。

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