2009年12月アーカイブ

少し前の記事でlivedoor Readerではフィードの中にUnicodeのBMP外の字があるとそこで切れてしまうということを書いたのですが、先日他のブログのフィードを見ていたら「𠮟」がきちんとフィード表示の中に入っていたので、最近直ったのかもしれません。

ということでこの記事はテスト用です。livedoor Readerできちんとここまで表示できていれば、直ったことになります。

もっともこの場合、「直った」というべきか「新たに対応した」というべきか微妙かもしれません。

【追記2009/12/27】この記事のフィードをlivedoor Readerで表示したところ、前と同じく「𠮟」の前で切れてしまいました。変わっていないようです。上記の「他のブログのフィードを云々」というのは、調べてみたら、このブログのように文字そのものを記すのでなく、フィードの中にHTMLの文字参照の形式で記述されていました。「𠮟」の文字そのものを記すと問題になるようです。結局、「直った?」に対しては「直っていない」が答えのようです。

くぬぎ

| コメント(0) | トラックバック(0)

本屋を歩いていたら第3水準漢字が目に飛び込んできました。㓛刀(くぬぎ)正行『海の色が語る地球環境』の著者名の1文字目「㓛」です。JISの面区点番号1-14-59です。

この字は1文字でも「くぬぎ」と読むことがあります。SKKの辞書には1文字のも2文字のも両方とも入っていたはず、と思ってさっき確かめてみたら、「㓛刀」の方は意外にも 入っていませんでした。後で追加しておこう...。

AmazonなどのWebページでは「功」の字で代用しているようです。

アンパンマンの作者、やなせたかし氏があるときテレビで語っていました。

アンパンマンは当初、パンでできた自分の身を腹の減った人に食べさせることで人助けをするというものだったそうです。こんな変な話は売れませんよと出版社の人に言われたとか。

なぜそんな話を思い付いたのか、いきさつを語っていました。

第二次大戦中、世の中の人々はこれは正義の戦争だと言っていた。それなのに、日本の敗北に終わるとてのひらを返したようにあの戦争は正義ではなかった、アメリカこそ正義だと言うようになった。

世の中でいう正義なんてものは時代が変わればころっと変わってしまう。むなしいものだという思いを強く抱いた。

時代を経ても変わらない正しいこととは何だろうか。追求して考えたら、飢えた人に食べ物を与えて助けることはいつの時代でも通用する正義ではないかという結論に至った。

そこから、自分の身を削って腹ぺこの人を救うヒーローとしてのアンパンマンが誕生した。......というのです。

いつの世でも通用する普遍的な価値観を求めたことがこの話のポイントです。

bTibet 09にて、早稲田大学・石濱裕美子先生の講演「歴史上の大国モンゴルを魅了したチベット仏教」を聴いてきました。

石濱先生のブログにレジュメが掲載されています。モンゴルや歴史に興味のある方はご覧になると楽しめると思います。

モンゴル帝国というと、チベットの高僧パクパがモンゴル皇帝フビライの師として仏教を広めたことがよく知られています。この関係は時代が下った後もなぞられて、モンゴル人や満洲人がチベット仏教の施主としての役割を果たしたということです。(このことは一面では、中世のモンゴル帝国というものが後世にいかに大きな影響を与えたかということでもあると思います)

だいたい、ダライ・ラマという称号自体、16世紀にモンゴルのアルタン・ハーンから贈られたものだということからも、チベットとモンゴルの関係の深さがうかがえます。

面白いのは満洲人の清朝の時代です。満洲人はモンゴル人を同盟相手に選び、清朝が昔のモンゴル帝国を継承することを示すためにチベット仏教の施主としてふるまって権威づけをしたというのです。ダライ・ラマをトップとするチベット仏教はチベットのみならずモンゴルや満洲といった広い地域にわたって影響力を持っていたということです。ダライ・ラマに対して不敬だということが戦争の口実になったり、ダライ・ラマ6世の後継者の正統性をめぐって清朝とジュンガルが戦ったりするくらいなので、その権威たるや絶大です。

もっとも、馬に乗って戦う満洲人やモンゴル人のスタイルでは戦争に勝てない時代になると状況が変わります。20世紀になって社会主義勢力がモンゴルを覆うと、仏教寺院は破壊されて悲惨な時代に入ります(一面では、迫害された僧侶が亡命先のアメリカなど西洋に仏教を紹介する機会ともなるのですが...)。社会主義政権が崩壊した現在ではモンゴルでは一応自由に宗教活動ができますが、仏教が抑圧された期間が80年くらいと長きに渡ったために復興もなかなか大変だそうです。

と書いてみて思ったのですが、やはり私の怪しげな要約よりも石濱先生のレジュメを読んだ方がいいと思います。

妹尾堅一郎『技術力で勝る日本が、なぜ事業で負けるのか』は大変興味深い本でした。技術系の企業に勤める方は読んでみると面白いと思います。

イノベーションということが昨今よく言われるけれども、著者の考えでは巷間言われるイノベーションはイノベーションというよりもインベンション(発明)だと指摘しています。イノベーションとは、インベンション(発明)×ディフュージョン(普及)だというのが著者の主張です。単に発明だけでなく、技術を核にして他者をうまく巻き込んで普及させ、普及するほど自分のところにお金が落ちてくる仕組みを構築することが必要だということです。

日本メーカーの現在の問題点として、技術開発の段階で先行しても、普及段階に入って市場規模が世界的に拡大していくと必ず負けて外国メーカーの後塵を拝する格好になってしまうということを挙げています。DRAM、液晶パネル、DVDプレーヤーなど、たくさんの実例があります(例外はデジカメだそうです)。

なぜそうなってしまうのかというと、他者を巻き込んだイノベーションモデルについていけていないことが問題だとします。特許をたくさん持っていてもビジネスモデルができていないと競争に勝てないのです。競争のモデルが今や変わってしまっていることを認識しないといけないとのことです。

夏目漱石は「自分がない」空虚な状態からどう脱したのか?----「自己本位」の発見」を読んで、そういえばこの本を10年くらい前に読んだ筈だなあと思い出しました。でも当時はあまり印象に残りませんでした。

どういう話だったんだっけと思って、改めて読んでみました。

すると、最初に読んだときと違って、ぐいぐいと心に訴えかけてくるものを感じました。

本の中身は何も変わっていないのですから、10年経って私の方が変わったのでしょう。よくいえば人生経験を積んだ、悪くいえば少々くたびれてきた、というところでしょうか。

この文章は晩年の漱石が若い学生に向けて行った講演です。自分の若い頃をふりかえって若者にアドバイスをするものです。年長者の助言というのは、後になってみないとよく分からないものなのかもしれません。

1867年生まれの漱石がイギリスに行っていたのは1900年から1902年ですから、30代なかばの頃です。自分が同じ年齢で同じ境遇であったらどうかと、今の自分ならばある程度想像してみることができます。文豪をちょっと身近に感じます。

本というのは安易に捨てるものではないと思いました。時を置いて見直してみれば違う発見があるものです。

クラウド・コンピューティングの進展に伴って、データセンターを新設・拡大する動きがあります。なかでも目を引くのが、寒冷地への設置です。

データセンターでは機器を冷却する必要がありますが、この冷却にかかる電力はセンター全体の消費電力の3分の1程度を占めているといいます。冷却が効率的にできればそのぶん電力は少なくて済みます。環境にやさしいということです。

寒冷地に設置するというのはつまり、効率的に冷却するために、データセンターを寒冷地に置いて冷たい外気を利用するという目論見です。さらに、雪を使った冷却方法も考案されています。

北海道の石狩市ではデータセンターの誘致を進めています。先日12月14日には市議会で「石狩市グリーンエナジーデータセンター立地促進条例」が成立しました。税金の免除や設備への助成によってデータセンターを誘致するものです(関連記事「「グリーンエナジーデータセンター」誘致 石狩が推進条例 」)。

石狩市のウェブサイトにはデータセンター誘致の案内もあります。

石狩市は札幌の北隣に位置する日本海に面した街です。雪は多いです。というのは、日本海を渡ってきた水分を含む空気が冬の季節風によって直撃するためです。この豊富な雪を利用して、データセンターの冷却に使ってやろうというのが石狩市のプランです。

石狩市ではないようですが、日本ユニシスが北海道にデータセンターを新たに設置したというニュースがあります。(「日本ユニシス、北海道にDC構築 - 電力使用量は東京の6割強、PUEは1.19」)。日本ユニシスの発表を見ると札幌のようです。

このニュースによれば電力の効率を示す指標のPUEは1.19とのことです。記事にはPUEは2.0を切れば優秀と書かれています。城田真琴『クラウドの衝撃』によれば、業界団体の「グリーン・グリッド」の設定する目標値が1.6で、同書が優秀だとするHPの事例でも1.25なので、1.19というのは相当に優れているといっていいと思います(もっとも日進月歩の業界なので、2009年2月発行の同書の記述がいつまで有効なのか私には判断がつきません)。ニュースを読む限り日本ユニシスのデータセンターは雪を使ってはいないようですから、雪を使うタイプのものではもっと効率が上がるのかもしれません。

疋田智さんの最新のメルマガで紹介されていたのが、尼崎と松本の自転車レーン。ちょっとウェブで検索してみました。

どちらも車道の左側をペイントして自転車の進行方向を明示したものです。やはりこの方法が良いですね。前に紹介した宇都宮のものと同じようです。尼崎のは、逆走(右側走行)すると「逆走できません」というメッセージが見えるという親切(?)ぶりです。

安岡先生の「新常用漢字表が迫るUnicode移行、「シフトJIS」では対応不可能」は、気になる点がふたつありました。ひとつは、「シフトJIS」では対応不可能としている点、もうひとつは、「𠮟」や「剝」がJIS X 0208で表現不可能であるかのように書かれている点です。

JIS X 0213:2004にはShift_JISの上位互換であるShift_JIS-2004という符号化方式がありますから、これを使えば「叱」0x8EB6に対する「𠮟」は0x9873というコード値で見事に表現可能です。『「シフトJIS」では対応不可能』という文言は、第2水準漢字までしかサポートしないShift_JISに限定すれば成り立つとしても、第3・第4水準漢字を表現可能なShift_JIS-2004という上位互換のコードを使えば(私は毎日使っています)あたりません。Shift_JIS-2004はEmacsでもサポートされています。

第2の点としては、JIS X 0208:1997が実際には、28区24点に対応する文字として「叱」と「𠮟」の両方を表現可能だと規定しているということです。つまり、Shift_JISの0x8EB6を出力する際に「叱」としても「𠮟」としてもいいのです。「𠮟」が「叱」とは別の区点位置としてJIS X 0213:2004に追加されたのは、例示字形を表外漢字字体表にしたがって改める際に、Unicodeがバージョン3.1で導入した「拡張B」において「𠮟」をもともとあった「叱」とは別の字として追加してしまっていたため、単純に28-24の例示字形を変えるとUnicodeとの変換表を変えなければいけなくなるということで、「表外漢字UCS互換」として特別に追加されたものです。その際、面区点位置1-28-24は「叱」専用に変更されました。これはJIS X 0213に対する変更であって、JIS X 0208に対してではありません。したがって、JIS X 0208としては今でも28-24で「𠮟」を表現可能なのです。(今後のJIS X 0213への移行のしやすさを考えると28-24を「叱」専用のようにみなした方が話が単純にはなります。単純ですが、正確ではありません)

もっとも、安岡先生が上のような事実をご存じでないはずはないので、意図的に話を単純化して書かれたものでしょう。

「しかる」の意味の漢字の字体として、現代の日本では「叱」も「𠮟」も両方使われています。漢和辞典には「しかる」が「𠮟」であり、「叱」は別字であるとするものがありますが、実際の文字運用とは合致しません。JIS X 0208:1997もそのことに言及しています(規格票p.276)。仮にJIS X 0208の28区24点が「叱」にしか対応しないと決めると、「𠮟る」などと印刷された文字が符号化できないことになり、大変不便になってしまいます。

JIS X 0208:1997に説明されているところでは、JIS X 0208の規格票の例示字形としては、第1次規格(78JIS)ではもともと「叱」の字体で印刷されていたものが第4刷への正誤票において「𠮟」に変更したのですが、のちの改正ではまた「叱」に戻っています。

また、同じくJIS X 0208:1997の説明では「新字源」と「大漢和辞典」では「しかる」の字は「𠮟」であり、「叱」は大漢和辞典では「カ」と読む別字扱いになっていることが説明されています。そのうえで、コンピュータのフォントや活字や、あるいは手書きでも、「しかる」の意味で「叱」が実際には多く見られることが述べられています。

漢和辞典的には「しかる」を「叱る」と書くと間違いだとして𠮟られてしまうのかもしれませんが、現実の文字運用上は「叱」と「𠮟」に区別がないといってよいでしょう。解像度の低いコンピュータの画面では区別がつきづらいということもあるので、区別しない方が本当は便利だと思います。

いま売れているビジネス書作家・勝間和代氏は、親指シフトキーボードを効率的な入力方式として推薦しています。

Googleトレンドで「親指シフト」の検索状況を見てみると、2008年に目立って増えていることが見てとれます。これは2007年12月に発売された同氏の著書『効率が10倍アップする新・知的生産術――自分をグーグル化する方法』の影響があると思います。

ただ、2009年になると「親指シフト」の検索回数は減っています。勝間効果がどれくらい長続きしたのか、また、実際に親指シフトを使うようになった人がどれくらいいたのかは定かではありません。キー配列の習得にはある程度の根気が必要ですから、そう多くの人が実践したとはあまり考えられません。

もちろん、親指シフトは根強い人気を持つキー配列ですから、以前から使っている人は勝間効果とは無関係に使い続けていることでしょう。

私は最近、パソコンで日本語を入力するのに月配列という仮名配列を使っています。

この配列は、仮名の並びは新JIS配列(JIS X 6004)から、「中指シフト」というシフト方式は花配列から、それぞれ影響を受けています。

月配列の良い点のひとつとして、特別なキーボードを必要としないことが挙げられます。広く出回っている日本語キーボードでも勿論かまいませんし、ANSI配列(英語キーボード)でも使えます。私はHappy Hacking Keyboardで月配列を使っています。Linuxでよく使われる日本語入力ソフトウェアのSCIM-Anthyでは月配列がメニューに用意されており、選択するだけで月配列で入力できるようになります。(Windowsの場合はキー配列を変えるソフトウェアを導入する必要があります)

手元にある普通のキーボードがそのまま使えて、なおかつ打鍵数はローマ字入力の4分の3程度とされています。効率的な文字入力に興味のある人にとっては、検討する価値のある配列だといえます。

さてこの月配列の前身のひとつが新JIS配列(JIS X 6004)であるわけですが、この規格は従来のJIS配列(現在多くのキーボードに刻印されている仮名配列です)の反省点を踏まえて研究を重ね、どのような配列が打ちやすいのかを調査した上で設計し、1986年に規格化されました。ところがいろいろな理由があってか普及しなかったため、1999年にあえなく廃止となってしまいました。

しかし、廃止されてそれで終わりではありませんでした。新JIS配列の設計の良さを認めるキー配列マニアのような人たちがネットの掲示板等で議論を重ねた結果、花配列の中指シフト方式と組み合わせることによって、新JIS配列は月配列という新たな形によみがえり、新たな利用者を獲得することができました。月配列の発祥の地は2ちゃんねるです。

短期的にはたとえ商業的な成功を収めることができなかったとしても、合理的な設計が文書化されて残っていればいつか再評価される日も来うるのだということを、新JIS配列と月配列の歴史は物語っているように思えます。

参考になるサイト:

前に庭園美術館に行ったときは時間の都合で庭だけ見て帰ってきたのですが、今回は展覧会も見てきました。「パリに咲いた古伊万里の華」という展覧会です。

17世紀、有田で磁器が作られるようになった後、中国大陸では(みん)が滅んで満洲人の(しん)帝国が侵入してきてしばらくの間戦乱が続きます。このため中国からヨーロッパへの磁器輸出が途絶えて、代わりに日本から有田産の磁器がオランダ等へ輸出されることになります。日本の磁器はヨーロッパで好評を得ますが、清が明の残存勢力を平定し終えると、中国からの磁器輸出も再開されるようになり、日本と清の磁器が互いに影響を与えつつヨーロッパで勢力争いを繰り広げます。そのうち、中国・景徳鎮が価格で優勢に立ち、ヨーロッパでもマイセンの磁器が勃興してくると、日本からの磁器輸出は衰退していく...。というのが、会場の説明文を読んで私の理解した歴史です。

この展覧会にはヨーロッパ向けに作られた作品がたくさん展示されています。江戸時代というと鎖国のイメージがありますが、一方ではきちんと海外の需要に応じた作品を作って商売していたのだなということが分かります。

台北の故宮博物院で見た磁器もとても良かったですが、日本のはまた違った良さがあると思いました。ひさびさに文化的な養分を目玉から吸収してきました。

メガ地域の時代

| コメント(0) | トラックバック(0)

リチャード・フロリダ『クリエイティブ都市論』は刺激的な本です。

交通・通信技術の発達によって世界のどこにいても変わりなくなる、という「フラット化」の考えが一方にあります。それに対して著者は、実際にはどこでも同じになってはいず、むしろ大都市圏への集中が一層進んでいて、世界はフラットというよりも鋭い凹凸のある「スパイキー」になっている、と指摘します。それならば、自分はどこに住むべきなんだろうか、どういう都市が人をひきつけるのだろうか、というのが本書のテーマです。

現代の都市は単独であるのではなく、いくつもの都市が複合して巨大な経済圏を形成しています。著者が独自の手法で分析した経済圏の単位を「メガ地域」といいます。アメリカ東海岸のボストン、ニューヨーク、ワシントンと連なる地域を一体とみなして「ボス゠ワッシュ」と名付ける、などといった具合です。

日本には4つのメガ地域があるとします。規模の大きな順に、「広域東京圏」、「大阪゠名古屋」、「九州北部」、「広域札幌圏」です。中でも「広域東京圏」は世界最大のメガ地域だとしています。日本以外の東アジアには、「ソウル゠釜山」、「上海」、「台北」などのメガ地域を挙げています。

日本、特に東京近辺にいると、ともすると日本国内は「東京 vs その他地方」のような構図でとらえがちですが、上記の4大メガ地域という視点でとらえるのが、より未来的な考え方かもしれません。もう少し日本国内に特化した見方をするなら、「東名阪」+「札仙広福」の7大都市圏でもいいでしょう。

都市の魅力として本書では美観の重要性を挙げています。要するに、富をもたらすクリエイティブな人材は美しい場所にひかれるということです。都市の美しさという面では、日本の各都市はまだまだ進歩の余地があります。また、マイノリティを含む多様な人々を受け入れる寛容性、開放性も重要だとします。他人と違うことをするクリエイティブな人材にとっての居心地の良さに関係するということでしょう。

時代が都市圏間競争に移行し、人材の流動性が高まれば、なにも東京にこだわることはないと考えるクリエイティブな人材も増えるでしょう。もっと自分にあった土地で活動したいと考える人材をひきよせる受け皿を各都市が用意することが、都市圏の競争力強化につながります。

前の記事で寄付の話が出たので、寄付に関係するWebサイトをいくつか紹介しておきます。興味のあるものを調べてみてください。

NPO/NGOが探せるサイト。Webサイトから直接寄付も:

難民支援:

地方自治体:

  • 札幌市 (奨学金、障害者支援、緑化等)
  • 越前市 (奨学金)
  • 鎌倉市 (奨学金、緑地保全等)
  • その他いろいろ

大学:

チベット関係:

奨学金と寄付

| コメント(0) | トラックバック(0)

先日テレビのニュースで聞いたのですが、このところの不況の影響で、奨学金への寄付が減っているそうです。

また、民主党の言っている高校の授業料無償化のために、もう奨学金は必要ないと思う人もいるのだそうです(関連記事「あしなが育英会:「奨学金不要」は誤解 「授業料無償化」で募金不調、遺児ら窮状訴え」)。

そういえば半年ぐらい前だったかにも、アメリカで教会への寄付が減っているというニュースを目にしました。

経済状況の悪いときほど、意識的に寄付を増やす必要があるのかもしれません。

寄付を募っている団体はWebサイトを設けて案内を出しているので、Web検索で「奨学金 寄付」などとキーワードを入れて探してみれば、関連する情報が得られるでしょう。(面倒くさがりの人のために、キーワードにGoogle検索へのリンクをつけました。クリックしてください)

寄付というのは「したほうがいい」とは思っていても自分の生活にとって緊急の用事ではないので、ついつい先延ばしになりがちです。永遠に先延ばしにしないためには、自分が1年間に寄付する額を定めてしまって、その額だけ寄付することを1年の行動目標とするのがひとつの手です。額はいくらでもいいのですが、目安として年収の1%とすると分かりやすいでしょう。1%というのは、寄付サイトGive Oneの名前の由来になっています。

思うに、杉田聡『クルマを捨てて歩く!』(講談社+α新書、2001年)は、世に出るのがいささか早すぎたのかもしれません。

この本は、クルマを持たないことの効用を、個人レベルのものとして説いたものです。クルマを持たないことには、地球環境や渋滞問題、排気ガス問題、振動問題、交通事故問題、等々の大きな問題に対して効果があります。本書でももちろんそうした点に触れていますが、視点はあくまでも「普通の市民の一個人としてどうか」にあります。このことが、本書を読みやすくしている最大の理由でしょう。

個人として、というのは、たとえば、自動車を所有しなければお金がこれだけ浮くという現実的な話から、子供が外を歩くうえで自動車がどれだけ危険かといったことや、地域づきあいへの影響、歩く楽しさに至るまで、研究紹介から著者自身の体験や感想まで交えて書かれているのです。丁寧な文体と楽しそうな雰囲気もあいまって、読んで共感する人が多いのではないでしょうか。

本書の著者は、北海道は帯広市在住だそうです。「地方ではクルマは必須だから...」という話は、本書を前にすると成り立ちません。

ただ、何キロでも歩くという筋金入りの著者はあまりにも筋金入りすぎるところがあり、たとえ自転車が自動車のような悪影響なしに速く移動できるとしても、自転車より歩いた方がいい、というラディカルさにはなかなかついていけないかもしれません。適宜、自分のライフスタイルにあわせた読み替えをした方がいいでしょう。

この本が出版されてから8年経ち、本自体は今や新刊として入手することは困難になったようですが、社会的状況はあまり変わっていないように見えます。CO2を減らしましょう、とは言われますが、家庭部門のCO2排出の最も多くを占める自動車を減らそうという声はなかなか聞こえてきません。「無駄なアイドリングをやめましょう」という呼びかけはあっても、「無駄な自動車の使用を控えましょう」と聞くことはまずありません。

もし今この本が改めて発売されたら、どういう反響があるだろうか、以前よりも話題になるだろうか、と、少々興味があります。

クルマを減らす方法は自転車だけではありません。むしろ、自転車だけでは片手落ちといえるでしょう。路面電車やバスとの組み合わせが有効です。

以前訪れたスイスのジュネーブのある通りでは、路面電車と自転車のみが走っていて、自家用車は通っていないという所もありました。歩いていて楽しい魅力的な街でした。

路面電車を中心とした商店街をトランジットモールと呼ぶそうです。トランジットモールにおける路面電車の役割は「水平エレベーター」と呼ばれることもあります。デパートを垂直移動するエレベーターになぞらえて、商店街を水平に移動することからこう呼ばれるのでしょう。

報道を通じて知る限りでは、全国各地の商店街の人たちはなぜか自動車を減らすことに消極的なように見えます。路面電車の構想に反対する人というの大抵商店街の人なのです。クルマを減らすと客が減ると思っているのでしょうか。

しかし、クルマというものは「通過していくもの」である一方、歩行者は「そこにいるもの」なのだから、歩行者を増やした方が街はにぎわうはずです。街を自分の足で歩く人をいかに増やすかを考えた方が、活性化のためには有効です。

前の記事で共有自転車では車やCO2は減らないのではということを書きましたが、ヴェリブで注目されているパリでは、ヴェリブ以外にも自転車を推進する政策がとられています。

車線のひとつをバス・自転車専用にするというのがそのひとつです。これが自動車を減らす効果があるのは明白です。

また、車道の中に自転車専用レーンを作ることも行なわれているそうです。ちなみにパリでは自転車が歩道を走ると罰金が科せられるそうです。

こうした自転車レーンの整備は、アムステルダムのように先行する自転車都市では当然のことです。自転車を推進して環境対策・渋滞対策とするには、こうした地道な取り組みが本流であるように思えます。ヴェリブに目がくらんでこうした本流の取り組みを見落とすようではいけません。

日本でもバスレーンと自転車を同居させる試みはあります。金沢で行われたそうです。本格導入が開始されたそうなので、今でもやっているのではと思います。

最近こんなニュースがありました。

いわゆる共有自転車の管理に、NTTドコモの通信や決済の技術を使うようです。共有自転車は細々と実験されては失敗してきたものですが、パリの「ヴェリブ」が最近成功例として注目されています。

上の記事では「ドコモでは「当社も低炭素社会の実現を目指しており、環境ビジネスへ挑戦している中で、サイクルシェアリングは環境に配慮する公共交通の手段として注目されている。(後略)」としている」といっています。

ここで疑問が生じました。共有自転車は低炭素社会を作るのに役立つのでしょうか?

自転車は環境にやさしいといわれます。人の脚力以外の動力を必要としないのだから当然です。が、自転車は別段CO2を吸収してくれるわけではありません。自動車のような環境負荷のより高い乗り物を使うはずだったところを、自転車で済ませるから、結果的にCO2が減るわけです。つまり、自動車を代替して初めてCO2が減ったといえるわけです。

しかるに、今回の共有自転車の実験は、自動車を代替するという用途にはあまり向かないように思えます。自転車を乗り降りする拠点は札幌の市街地に用意するということですから、おそらく大通の近辺なのでしょう。別の記事によると「札幌市の大通地区周辺に10〜15カ所の専用ポートを設置し、100台の自転車を有料で貸し出す」ということです。それならば、自転車に乗る人は自宅から大通まではどうやって来るのでしょうか? 自動車で? それなら意味ないですね。

おそらく、主要なターゲットは他の街から札幌を訪れた人(観光客等)なのではないかと思います。札幌に住んでいるのなら、わざわざ大通で借りるまでもなく、自宅から自転車に乗って出かければいい話だからです。

ならば、他の街から札幌に来る人はそれまで札幌都心で自動車を使っていたのかというと、そうではないでしょう。東京から札幌に出張に来てレンタカーを借りるといったことは、市外に出たりするのでなければ、普通ないはずです。例えば、すすきののホテルに泊まった人が北大に行くとする。レンタカーを借りて? いえいえ、そんなことはしないでしょう。地下鉄で行くのです。もちろんこのときに共有自転車を使ってもいいわけですが、その場合、自動車の代替ではなく、地下鉄という割合エコな乗り物の代替でしかないことになりますから、エコという観点ではあまり得がない。

どうも、共有自転車は自動車の代替としてはあまりはたらかないのではないかと思えます。都心部の近距離タクシー移動の代替がせいぜいであって、郊外から都心に流入する自動車を減らすような、より切実な問題への効果はほとんど無いでしょう。

共有自転車が都市の自転車活用という観点からあまり効果が無さそうだというのは私のオリジナルな意見ではなく、あの疋田智氏が著書『自転車の安全鉄則』(朝日新書)で言っていることでもあります。なんでも、パリのヴェリブにしても、自動車走行の削減を特に狙いとしたものではないそうです。

環境のために自転車を使うならば、自宅から出るときに自家用車でなく自転車に乗っていく、ということが肝心であるように思えます。共有自転車は、来訪者用の手軽な交通手段ではあっても、環境対策や渋滞対策になる可能性は低いと考えられます。

広告